ノックビン(ジスルフィラム錠) アルコール依存症治療薬

アルコール依存症治療薬レグテクトから抗酒剤ノックビン(ジスルフィラム錠)に変更。強制的に酒を飲めない体質にする訳だから、抑止力の差は歴然。

アルコール依存症の親を持つ成人した子供たち.2

      2016/12/10

アルコール依存症の親を持つ成人した子供たち.2

なぜアルコール依存症の親を持つ成人した子供たちは「生き延びた人」(サバイバー)と呼ばれるのか?

このサバイバーという用語は、アルコール依存症の親を持つ成人した子供たちが、子供時代をずっと生き延び、あたかも交戦地帯といえるような環境の中で生き続けたことを意味する言葉である。戦争神経症になった戦争のベテランのように、何回も生命が脅かされるような子供時代を送っている。

*戦争の極限状態で陥る神経症である。交戦時の不安、恐怖、罪業感などによって引き起こされ、精神的混乱、抑うつ症状、自信喪失をきたし、愛情、信頼、親密さの関係を持ちにくい。

すなわち、情緒的にも、精神的にも、身体的にも脅かされてきたのである。あるものは性的にも虐待されている。アルコール依存症の親を持つ子供たちは、正に生き続けるために身をよけ、切り抜け、隠れ、学び、適応するという驚くべき作業をしてきている。彼らは、おかしなことは何もないと装う努力をしながら、その中で生き延びることを学んでいる。何度も自分たちの生活から情緒面を締め出してしまわねばならなかった。情緒的生活を否認し、遮断し、抑圧し、孤立させ、切り離す術を身に付けた。もしそうしなければ、彼らの感情は自分を押しつぶしかねなかった。アルコール依存症の親を持つ子供たちには、ひどいケガをするような事態がよく起こる。だから彼らが大人時代へ到達できたなら、それは彼らの「技術と勇気に対する証し」と言えよう。
アルコール依存症の親を持つ子供たちは、基本的に一人で生き延びなければならなかった。なぜなら、それがアルコール依存症という病気に由来する特徴だからである。それは、孤立し、切り離された、孤独な病気である。この子供たちの大多数は、沈黙の中で苦しまねばならなかった。彼らは、もし自分が勇気を出して言ったとしても、言ったことを誰も信用しないと思った。誰がそれを信じられるだろうか? 実際のところ、彼らはたぶんそれなりに言葉ではっきりと、起こったことについて話さないように言われた経験を持っている。彼らは教室で、このような問題について話すと、明らかに先生に歓迎されなかった体験を持っていたかもしれない。彼らは、親戚の人は何が起こっているのか見ていても、口を閉ざして話さないと分かっていただろう。至るところに秘密があり、沈黙の覆いがあった。誰も話そうとはしなかった。誰丁人としてその明白な事実を認めようとはしなかった。私たちが関わった一人の女性は、まわりの親戚に対する彼女の怒りを静めるのに相当時間がかかり、それも後になってすべてが傷となってしまったのだが、親戚は、彼女の両親がアルコール依存症であり、彼女が虐待され、トラブルに巻き込まれているのを見ていて、それでもなお彼女を助けるために手を差し伸べようとしなかったのだ。彼らは何も言わなかった。彼女は裏切られたように感じたのである。
このように、アルコール依存症の親を持つ子供たちは、一つの戦争を通して生き、何かを成し遂げてきたがゆえに、生き延びた人(サバイバー)と呼ばれるのである。もし彼らが元気でしかもこの本を読んでいるならば、私たちは、彼らは最後のところまで事を成し遂げたとはっきり確認するのである。彼らは、生き延びることができ、今、生き延びており、これからもずっと生き延びるだろうということが私たちには分かる。

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私は子供であったことが一度もないように思う。

子供時代に何があったのか?
これは、アルコール依存症の親を持つ子供たちが非常によく報告する体験である。彼らが、「一度も子供であったことがない」と言う時、それは正しい。彼らは、本当に子供時代の自由な気苦労のない年月を経験しなかった。彼らは生き続け、自分を慰め、物事を正常に戻すように努力し、調整し、責任を持つことにあまりにも忙しかった。言い替えれば、すべてにあまりにも忙し過ぎて、子供ではいられなかった。
アルコール依存症の家庭では、アルコール依存症が進行し、共アルコール依存症が深まるにつれて、実際に子供が子供であるために残された時間はほとんどない。彼らは子供として扱われないし、自分自身を子供として見ることすら難しくなる。子供は、両親による便宜とその責任をそれなりに必要としているが、その親がアルコール依存症の家庭には存在しないことが多い。その代わりに、非常にしばしば、子供たちのほうが親の必要を満たすために便宜を回り、責任を持つことが求められる。子供たちは傷を受けやすく、彼らの面倒をみてくれたり、守ってくれたりする親を当てにしている。しかしながら、アルコール依存症の家庭では、子供が子供であることは安全ではないのだ。しばしば、彼らの面倒をみる人がそこには誰もいないのである。その状況に対処し、親に代わる者が誰もいない恐怖を隠そうとして、アルコール依存症の親を持つ子供たちは、うわべは強くて能力があるように見せかける術を学ぶ。彼らはまだ子供であるのに、大人のように振る舞うことを学ぶ。
私たちが関わったハ歳の少女は、寝入った後に両親が喧嘩を始めると、どれだけぎょっとさせられたか分からないと述べた。叫び声が大きくなり、ガラスが割れる音や平手打ちの音が高くなるにつれて、彼女は小さな妹を自分のベツドに移動させた。妹が泣くとその子を慰める。「だいじょうぶだよ。お父ちゃんはお母ちゃんをけがさせたりしないよ。仲直りするよ。ちゃんと待ってみてごらん、何もかもうまくいくよ」。彼女は、両親への恐怖を妹へそらした。次の日も、彼女はすべてがうまくいくに違いないと母親を慰めながら、母親の面倒をみたり、家事のいやな仕事を手助けして、偽りの大人の役割を継続した。
もう1人の子供は、アルコール依存症があまり目立たない家庭で生活していた。彼の父親は、よろめくほどに酔っていなくても、一貫性はまるでなく、予測できるやり方は何もできなかった。少年は父親を心の底から愛していて、父の重荷にはなりたくなかった。少年は、よく父親が飲酒しているかどうかはっきりしないので、あるテストを考案した。父親が家に帰ってきた時、彼は父親にバスケットのゲームをやろうと誘う。もしも、父親がゲームに負けたら、彼は、父が飲んでいる状態であり、長い夜がその後に続くことを悟る。もし、父親が勝つようだと、その時はしらふであり、その夕方は安全だと思ったものだ。
さらに、隣の家に遊びに来るように誘われたもう一人の子供の例がある。「いいよ、遊べるよ。夕方まで何もないから」とは、とても言える気持にはならない。むしろ、この子供は、何事があったかをすべて点検するために、学校が終わると家に帰らなければならないと切実に感じていた。誰がしらふであるのか、誰がそこにいるのか、彼女が他の子供の面倒をみなければならないのかどうか、あるいは家族の夕食の用意を始めなければならないのかを知る必要があったのだ。
これらの子供たちはすべて、早く来すぎた大人時代で自分の子供時代を奪われてしまった経験を持っている。典型的には、親と子供の役割の逆転がある。このことは、子供たちが本当に遊んだり、楽しんだりするチャンスが一度もなく、本当に責任や、罪、悩み、世話を焼くことの、すべての足かせから自由になるチャンスが一度もなかったことを意味する。アルコール依存症の親を持つ多くの子供たちは、彼らが思春期の終わりに、あるいは早めの大人の年齢に到達する時までに、つまり彼らの人生の最初の二十年間に、大人であることに疲れ、すでに燃え尽きてしまうのである。

家族の出来事をオープンに話せないような家庭で育つと、子供はどうなるのか?

何よりも先に、子供たちは、自分の目で見、耳で聞くものは自分に関係がないと教えられる。家族の中で認められていないから、子供たちは何が起こっているのか気がついていても、一つ一つ系統的にそれが否定されることになる。子供たちは自分の平常心の囁きを信じてはいけないと言われる。それははっきり言われたり、こっそり言われたりするし、露骨であったり、暗黙のうちであったりする。その結果、子供たちは、自分自身の経験は信じないよう学習してしまう。同時に子供たちは他の人たちも信じないように教えこまれる。子供たちが一生懸命、あることを話す時、他方で子供のまわりの重要な役割を果たす大人たちが違った意味のことを言うとしたら、子供たちは一体どうしたらいいか分からなくなるだろう。例えば、ある少年が、アルコール依存症の母親が食事中椅子から落ちて立ち上がれないのを見たとする。彼の胃の筋肉は縮み、息をつめ、母親に手を差し出そうとする。というのは、母親が助けを求めているように思うからである。すると父親が食卓の向こう側からぎらぎらした顔で、具合が悪いのではないと強い調子で言う。父の表情は何もなかったように、動いてはいけないと言っているようだ。「お母さんは大丈夫だよ。そっとして、知らん顔をしていなさい。さあ食事をしなさい」と父は言う。その時、子供はテーブルに注意深く座り、頬に涙を流しながら、お母さんがもがいて立ち上がろうとするのを見ている。子供は、静かにして、何も普段と変わったことが起こった訳ではない「ふり」をするように自分に言って聞かせ、泣いてこわばった喉に次の一口を飲み込めと言い聞かせるのである。
この子供は多くの学習をさせられる。彼は、自分の判断は貧困で不正確だということを学んでいる。「何も間違っていない」と聞かされるが、彼にとって何もかもが間違っているように見える。「私が間違った考えをしているに違いない。私が誤っているに違いない。なぜなら、お母さんが本当に助けを必要としているなら、お父さんが助けてはいけないと言うはずがないじやないか?」と考え始め、その子供は多くの耐えられない状況を耐えることを学ぶ。結局、子供たちは結論する。つまり「私はそれを正しく見ていない。何が起こったのかを理解していない。きっと私はこの状況を受け入れさえすればそれでいいのだ」と。その子は、自分の自然な反応はどうも受け入れてもらえないし、間違っているようだし、まず信じられることはないと学習する。また少なくともこれらの大人の中の一人は、自分に嘘をついていると学習する。あるいは、自分が感づいていることには、結局全部反対のことを言うし、自分の経験から本当だと思うことにもすべて反対するということを学習するのである。とどのつまりは、その子供は自分自身も他人も信頼しないようになってしまう。そうなると結果はまことに悲惨である。
小さい時に、体験や体の発する信号を信用しないように学習すると、人は自分の感情を無視するようになる。これまで述べた事例で、食事中、母親が途中椅子から落ちて床に倒れても、そこに座って食べ続けるように言われたあの少年は、さらにもう一つの知恵を学んだ。大切な感情のすべてを無視し、食事の時間中も、他の体験の間も、人生を通しても、あたかも何も起こっていないかのようにしていることである。そうするために、その子は、自分の感情を自分から切り離さなければならなかった。それから20年たって、彼は友達のところや治療の場できっと彼の子供時代の自分の家での食事について話をするだろう。そして、九歳の頃、家での食事の時間がとても面白かったとたぶん話すだろう。というのは、家族が食事をしていたらお母さんが椅子から落ちたからと言うのだ。彼は静かな声で、ぎこちない笑いを浮かべながらこのことを述べる。たぶんその経験と共に生じた自分の感情を少しも感じることなく話すだろう。実際は、いろいろな感情が存在するが、彼はそれを切り離すように教えられてきた。その結果彼は、自分の感情や考え、観察を十分に統合することを学んだことがなかったのである。家庭の中で、アルコール依存症について率直に話すことを許されない子供は、自分に何か誤りがあるのではないかと思い始める。子供は混乱したり、おびえたり、悪かったと思ったり、気分がすぐれず、気が変になったように感じる。そして、そのような場面について何ら議論もされず、このような感情は、アルコール依存症の親と共に生活する時にはよくあることだという説明もされないままである。

アルコール依存症の家庭を陰に陽に支配しているルールとは?

クラウディア・プラックは、アルコール依存症の親を持つ子供たちに関する先駆的な仕事の中で、三つの基本的ルールを記述している。彼女が何度も出会って見出したというそのルールは、「話してはいけない、信じてはいけない、感じてはいけない」ということである。アルコール依存症の家族について、広範囲な著述のあるもう一人の先駆者、シャロン・ウエッグシャイダー・クルーズは、アルコール依存症の家庭でのルールに見られる傾向は、不健康で、非人間的で、柔軟性がないと記録している。アルコール依存症者のアルコールの使用は、それが軸となって他のすべてのことが展開するような問題だと書いている。他の問題は家族にそれほど深刻な影響を与えない。しかもアルコール依存症の家族ルールは、アルコールが家族問題の原因ではないと明示する。すなわち原因となる人や間違いが他にあるのであって、アルコール依存症そのものは問題ではないと。加えて、現状はあらゆる犠牲を払っても維持しなければならないし、家族全員がアルコール依存症者の責任を引き受け、内密にし、守り、ルールを受け入れ、そして乗り組んだボートを揺らさないようにしなければならない。誰も他の人に、今何が進行しているのかを話さないだろうし、誰も、本当に感じていることを言わないだろう。これらのルールを守ることが安全なのであり、これらのルールを破ることが災いを呼ぶことになるのだ。
私たちは、ルールが二つの違った組み合わせからなることに気づいている。一つの組み合わせは、親が子供に与えたものから成り立っている。これらのルールは、支配、恐怖、罪の意識、恥じらいの上に築かれている。私たちはすでにそれらについては述べてきた。ルールのもう一つの組み合わせは、親のルールに対する子供の反応から発展したものだ。このルールはおおよそ次のような内容である。「もし、私が喋らないなら、私がどのように感じているか誰も分からないだろうし、私は傷つくこともない。もし求めなければ、拒絶されなくてすむ。もし目に付かなければ、私は万事うまくいく。もし、注意深くしていれば、誰も腹を立てることはないだろう。もし私が感じることをやめたら、私は何の苦痛も受けなくてすむ」と。その最も重要な守らねばならないことは「私はできるかぎり安全に物事をしなければならない」ということである。しかし、この「安全」はひどく高くつくはずである。

この家族の雰囲気とルールは子供にどのような影響を与えるか?

子供たちは、予測ができず、一貫性がなく、気まぐれで、混沌としている雰囲気の真っただ中で、起こっていることの意味を理解しようとする。そのような不安定な世界の中に置かれたら、子供たちも不安定になり、家族の不安定は自分のせいであるかのように思い始める。もしも、その子供が口に出せないことをあなたが聞くことができるなら、おそらく次のようなことが聞けるだろう。「これはむちゃくちゃだ。だから、私もおかしいに違いない。何かが間違っているよ。だから私も何か間違っているに違いない。私は愛を受けたことがない。だから、私はかわいらしくないに違いない」と。それから、さらに解釈が深く進行する。「私はかわいらしくないに違いない」は「私は愛なんて必要じゃない」と。「私は愛なんて必要じゃない」は「私は愛を欲しいと思わない」と。「私は愛を欲しいと思わない」は「愛なんて決してないのだから、愛すると言われても私は愛を拒絶するつもりだ。私は愛を信じることができないし、それは安全ではない」と。さらに、「私は愛を必要としない、私は愛を欲しいとは思わない」は、結局、「私は愛を受け入れない。私は愛を受け入れることができない」となる。
親子関係がどんなに深いものかなどは簡単に忘れてしまう。普通、子供は完全に両親の慈しみと養育に頼っている。両親は、文字どおり生きることを可能にする人なのだ。両親は家庭を与える。
両親は食べ物を与える。両親はまた、子供の自尊心の最も基本的な源である。子供たちは、最も深く愛する人が自分を最もひどく傷つけると、自分のほうにひどく間違っている何かがあるに違いないとしばしば結論づける。「私が悪いのか、それとも病気なのか、気が変になっているのに違いない」と。このようにして、アルコール依存症の親を持つ子供たちは、自分のことも他人のことも信じないように学習する。耐え、悩み、そして恨むことを学んでいく。自分の感情から自分を引き離し、自分の必要を否定することで生き延びようとする。彼らにとっては自分の感情やニーズ(要求、欲求など必要とすること)は非常に危険なもので、それはあまりにも苦痛が伴う。その代わりとして、アルコール依存症の家庭の子供たちは、自分をコントロールすることを学ぶ。彼らは表面を装い、嘘をつく。時には両方ともする。その結果として、彼らは周囲を煙に巻き、ゆがめ、混乱させることを学ぶことになる。愛情と世話を焼くことの区別がつかなくなり、自発的な行為を隠された意図があるようにとったり、親密さと強い愛情表現とを混同したり、怒りと暴力を区別できなかったりする。アルコール依存症者が、アルコールのせいで世の中に対する見方を曇らしているのと同じように、子供たちは、親のアルコール依存症のせいで感情や考えや行動の境界が分からなくなってしまっている。
よく子供は、親からあからさまに言われることがある。「お前がいるから、こんなふうになるんだ。私が飲んだりするのも……私がこんなだったり・::・あんなだったりするのもお前のせいだ。ただお前さえこんなでなければ……」と。子供というものは驚くほど自己中心的である。年端のいかない子供は皆、自分が宇宙の中心だと考えやすい。だから、親からこのように非常にきつい言葉や暗示を受けたら、当然それを自分の中に取り込み、固く思い込んでしまう。私たちは、あることを何回も何回も言われたら、それを信じ込む。アルコール依存症の親を持つ子供たちは、よく自分たちが家庭問題の原因であると信じこんでしまう。だからその状況を治し、その状況をコントロールできるようにしなければならないと思い込むのである。そのコントロールの必要性は、一生、彼らを追い続ける。

子供はこの極めて抑圧的な環境にどのように適応するのか?

家族療法の分野の研究によると、一般に家族のメンバーがストレスにさらされると、それと分かる一定の役割にそった行動をするという。ましてアルコール依存症者の家族は、すべてがストレスに曝されている。かくして持つこれらの役割は、家族を救うためと自分を救うための両方である。
家族療法で著名な先駆者、バージニア・サティアは、まず初めに、苦難の中にいる家族に一般的に見られる役割について述べている。ごく最近では、クラウディア・ブラックと、サティアの研究員であるシャロン・ウエッグシャイダーの両者が、それぞれ別々にアルコール依存症の家族には特有のしかも共通して見られる役割がある、と記述している。
ブラックの最初の仕事は、入院治療プログラムのなかでアルコール依存症の親を持つ子供たちとや 出会った時の観察から始まっている・彼女はヽその子供たちのほとんどが、表面的には極めてよく適応してきたように見えるにもかかわらず、実はそうは思っていないようだという点に注目した。たしかにアルコール依存症の家庭には、明らかに問題児がいる。だが大多数の者は自分を良く見せたり、人を喜ばそうと一生懸命になっているので、そのために見落されたり、見て見ぬふりをされたりしている。行動に走ったり、非行児になる場合もあるが、大部分の子供たちは、次に述べる三つの役割のうちの一つ、あるいはその組み合わせの役割を引き受ける。すなわち責任をとる役割、順応する役割、慰める役割である。
「責任をとる役割」を引き受けるのは、普通一番目の子かI人っ子である。この子供の行動は、「混乱の中心に立って、積極的に対応し、世話を焼く」という原則に従って組み立てられ、アルコール依存症者とその配偶者(共アルコール依存症)が残した責任を尻拭いする。典型的な例では、この子供たちは近所の人たちに驚嘆される。なぜなら、非常な早起きで、しかも非常に遅く寝る。その間に必要な家事を何でもしてしまう。年齢以上に大人で頼もしい子供で、朝起きのために自分の目覚まし時計をセットし、小さい妹や弟を起こし、他の子供たちが朝食を確実に取れるようにする。彼らは、親を仕事に行かせるために起こす役割さえすることがある。彼らは帰宅したら、夕食を用意し、それから洗濯をするという子供である。ブラックが述べている女の子は、自分がリラックスして遊ぶ特別時間も入れて、一日の仕事を時間ごとにきちんと七枚の紙に書き、部屋の壁に張っていたというが、彼らはそんな子供なのである。その女の子は、すべての責任を果たしながら、でも自分は子供だから遊ばなければならない、とまでも自覚しているような子供だった。それで、遊び時間もスケジュールに書き入れていたのだった。この子供は学校ではとても良く振る舞い、問題を起こして人の注意を引くようなことのない生徒である。実際のところ、これらの子供はほとんどがとても好ましく学校紀適応していると見られている。この子供は、きっと放課後に成績表の仕事の手伝いで国語の先生と共に残ったり、授業時間中に他の生徒たちの企画を手伝ったり、試験用紙を早く提出するような十代の子供である。この子供は目標をいくつか立てればそれを達成する。また、社会に対して明らかに家族を代表しているばかりでなく、自分の生活領域で安定して過ごし、コントロールできる力を獲得しているのである。
二番目の役割とは、プラックが「順応する役割」として言及しているものである。順応する役割の指針となる考えは、「混沌のただ中にいても、私はそれを無視する」ということである。例えば、これは、まわりの環境に影響されない。そういう子供は超然とすることでまわりと適合し、適応していく。この子供は、食事中、椅子から母親がころげ落ちるのを見ても気づかないふりをし、食べ物を1かけらも残さず食べ続けられるような子供である。この子供は、金切り声が聞こえても、知らないふりをしてテレビを見ながら座っていられるし、何が起こっても全くまわりのことに気づいていないようにして、すべて中断せず続けてしまうような子供である。近所の人や親はきっと、「アーロンはたいしたもんだ。家の問題にひとつも動じないようだ」と言うだろう。あるいは先生は言うかもしれない。「アーロン?アーロンて誰だっけ? ああ、あの子は教室の後ろに座って何にも言わない静かな子だよ」と。これらの子供は多くの場面を全部切り抜け、学年を完全にやり通すことができるが、誰からも注目されることはない。彼らは実に良く適合している。とても静かなので完全に見落とされてしまうことが多い。これらの子供は、何でもすべて示唆されるとうまくやる。自分から決断しようとしないし、あるいはしようとしてもできないからである。彼らは肩をすくめて、「別に構わないよ」とよく言う。というのも、自分自身の要求が何もないからだ。まわりの環境や自分の生活に影響を与えることができないと信じ切って、自分の力量や自我についての感覚をどこかで失ったのである。
三番目はプラックが言うところの「慰め役」である。慰め役を説明する原則は「混乱している中で、それを解決し、人より上手に処理する」ということである。慰め役は、人の気持や悩みやもめごとを静める。何が起こっているのか一瞬に悟り、的確に把握する能力が身についているので、部屋の中に入ると、無意識のうちに状況をつかみ、緊張がどの程度か、誰と誰が争っているのか、それは安全なのか危険なのかを飲み込んでしまう。そして、部屋の中の緊張がどんなものであれ、反射的に、緊張を解きほぐすようにし始める。慰め役は、争いの優れた解決者であり、調停役である。彼らは、自分のことはさておいて、一生懸命に人の気持を静めたり、必要とするものを世話してやる。慰め役の典型的な例としては、五歳で、すでに両親の結婚カウンセラーを務めている者もいる。
彼らはソーシャルワーク(社会事業分野)で博士号を生まれながらに持っているようなものだ。父母が喧嘩を始めると、慰め役は、緊張を緩めようといろいろなことをする。一日の厳しい仕事を終えて父親が帰ってくると、この女の子は、父親をドアまで迎えに行き、手を取って素早く、「お母さんは気分が良くないのよ。二階で横になっているわ。夕食はオーブンに入っているから、何も心配要らないわよ。お母さんはもうすぐ良くなるわ。だから、すぐ食事にしましょう」と言って、父親をお気に入りの椅子まで連れていく。学校では、彼らは誰とでもうまく合わせていけるミスター「ハ方美人」君であり、ミス「ハ方美人」さんである。学級で一番人気のある子供たちによくあることだが、彼らは学級の中でほとんど敵を作らない。なぜなら、彼はいつも人を喜ばし、喜ぱしたと思うとまた喜ばしているという具合だから。あなたは、毎日少なくとも十回以上は、「ごめんなさい。許してください。そんなつもりはなかったんです」と彼ら一流の詫びを言っているのに気づくだろう。詫びた自分をまた謝ったりする。ウエッグシャイダー・クルーズも、別の観点から、アルコール依存症の親を持つ子供たちの示す適応について記述している。彼女は、プラックの言う役割の同じ部分には違った用語を用い、それにもう一つ、四番目の役割を含めている。一番上の娘や息子は、「英雄」heroの役割を引き受けるという。その英雄は、仕事を熱心に行ない、成功して名声を得て、家族のためにがんばる。そのような子供は、男女を問わず、自分の家族は皆問題がないと言おうとする。英雄は家族の弱点を埋めようとする。彼らは称賛され尊敬されるだろうが、いつも失敗感や不全感を持つ。この英雄は、プラックの言う「責任をとる子供」と同じである。家族の二番目の子供は、しばしばもう一つの役割、「身代わり」scapegoatに最終的になっていく。それはプラックの言う「非行児かまたは行動に走る子供」に一致する。身代わりは、アルコール依存症の家庭で、逃げたり、失敗したり、盗みをしたり、飲酒したり、他の薬物を使用したりすることで問題の焦点をそらす。その子供たちは怒りに身をやつしているようだが、実際には彼ら特有の気持は傷ついている。二番目がそんなふうになるまでには、三番目の子供は次のようになっている。その子はどんな要求も全くしない。「忘れられた子」Most childと呼ばれる子供だ。これはブラックの「順応する役割」と同じである。その子は問題がないことで役立つ。その子は何も望まず、家族に混乱が起こるとますます独りきりになって、引っ込んでいるほうを選ぶ。忘れられた子は、独りで遊び、その役割のなかに孤独を感じながら、多くの時間を自分の部屋で過ごす。この子供は恥ずかしがり屋で、内気で、物静かな傾向がある。この子たちから期待できることはほとんどないのである。ウエッグシャイダー・クルーズの言う最後の役割の「マスコット」mascotとは、普通、後に生まれてくる子供で、大部分は一番年下の子供がその役割になる。このマスコットは、ブラックの言う「慰め役の子供」と同じ立場であるが、大半が道化役とずるけ役である。心をこめて、問題を解決したり、人の仕事を手伝ったりするというより、何かこっけいなことをして緊張を緩める。これがマスコットの典型的なやり方である。
その子が男であっても女であっても、その役割は、緊張感を解きほぐすために人の気をまぎらす役目なのである。しかしながら、代価は高くつく。未熟で、落ち着きなく動きまわり、弱々しく、情緒が貧困になるという結果を生む。

家族全体が病んだ家族の歴史を繰り返す運命に

立場に合わせて、これらの役割を果たしていると、家族全体が病んだ家族の歴史を繰り返す運命になる。それぞれのメンバーは独自の役割を果たして、家族全体の不健康さだけでなく、家族員一人一人の不健康な面を強化する羽目になる。もし中断できなければ、その役割は固定化し、身動きができなくなることを意味する。将来私たちが彼らに出会う時には、責任を取る役割の子供は責任を取る役割の大人になり、順応する役割の子供は順応役の大人、慰め役の子供は慰め役の大人、になっているだろう。
実を言うと、他の機能不全の家庭に育つ子供たちも同じ役割を担うようである。しかしながら、アルコール依存症の家庭の子供たちのほうは、これらの役割を頑固に持ち続ける。他の問題のある家族と違って、アルコール依存症の家庭では問題への否認姿勢は広範囲で固い。起こっていることを何か話そうとすると、それが誰であっても阻止しようとする。この硬直性と否認のゆえに、状況を変えるチャンスはほとんどないのである。

私はそれらの役割を全部やってきたように思う。人は一つ以上の役割を演ずることができるのか?
その通り。あなたの経験がすでに物語っている通り、子供たちは役割を一つ以上身につけることができる。子供たちは役割の続投もできるし、時々、役割交換もできる。私たちはよく、一人っ子が冗談に、これらのいろいろな役割すべてを、その時々に合わせてしなければならないと言っているのを聞いてきた。よくあることだが、英雄または責任を持つ立場の子供が家を出たら、他の役割を持った子がたぶん身代わりになって、英雄の役割を引き継いでいく。子供は長い年月の聞に自分の役割も交換できるのである。

私はとても成功して良い人生を歩んでいるかのように見える。でも、心はむなしく満ち足りていない。何が間違っているのだろうか?
何が間違っているかと言えば、あなたがアルコール依存症者の子供であることだが、たぶん、あなたはそうした家庭での経験と痛みがどんな威力を発揮しているか実感がなく、十分に気づいていないと思う。アルコール依存症者の多くの子供だちと同様に、あなたも、生まれた時にはすでにあった自分の家族のアルコール依存症と、自分の今抱えている感情や問題との結びつきを全く切り離して考えてきた。あなたは大人になって、遠くに去る(地理学的な治癒)ことができても、自分の家族の中で学んできたことを消し去ることはできない。子供時代にあなたが身につけたことは良きにつけ悪しきにつけ、ずっと残っていく。現在の中に昨日がありゾ氷遠に過去は生き続ける。たぶんあなたは全く新しい家族を作ってきたと思う。その家族では、お互いが親密で、暖かく、信頼が持て、実際に面倒をみる機会がある。でも、不幸にしてそれを自覚していないなら、家庭で見たり期待したりすることはすべて第二の戦争地帯と言える。反射的に反応して、あなたは、あたかも自分の子供時代の家族であるかのように目の前の家庭状況に対応する。あなたはよく不安になり取り越し苦労をする。そして今の家庭状況がまるで不安定であるかのように思えてならず、コントロールしようとする。現在のこの考え方は、過去の考え方に汚染されている。あなたの過去の考え方では、暖かさ、世話、信頼、自由、選択、交渉、ギプ・アンド・テイク(対等な役割)についても用心しなさいと教えられてきた。豊かな家庭の中にありながら、多くのアダルトチャイルドが飢え続けることがあるのは驚くにあたらない。あるいは、あなたは人と親密な関係をいつまでも続けられないことが分かってくるかもしれない。次々と、人間関係でトラブルに陥り、それが終わっていく。関係が誰ともない時でも、アルコール依存症の親を持つ子供たちは、よく怖がったり空しい気持になったりする。一方、ある人間関係に巻き込まれても、彼らは男女を問わずその関係を信用できず、悩む。彼らはよく、勝てるはずがないと思う状況に自分を置いてしまう。

アルコール依存症の親を持つ子供たちが家庭で学んだ適応行動

しばしば、アルコール依存症の親を持つ子供たちが家庭で学んだ適応行動は大人になって職業的に成功するのに役立つ。例えば、彼らは責任の取り方や状況をコントロールする方法や自ら進んで物事をしないうまいやり方や虚勢をはって体裁を保つ方法など、その状況に必要なものであれば、どんなことでもするよう学んでいる。彼らは、人の心を読み取る術も学んできた。それらの技術をいくつか用いれば、自分の経歴を高めることができる。実際、このような技術を用いたら、成功を予言できるかもしれない。しかし、この同じ技術がまた、自分を不幸だと思わせたり、親密な人間関係なのに不愉快な思いをさせるのである。彼らはコントロールや責任の取り方、その時期について学んではいるが、いつどのように手を引き、あるいは断念するかについては分からない。たとえ、アルコール依存症の親を持つ成人した子供たちが非常に世話好きな人と結婚し、家事を取り仕切り、新家庭をスタートさせても、それでも、家族を十分に信頼し、喜びを十分に分かち合えない自分に気づくこともある。彼らは、そのような状況でも尚、・人と心が通わず、空虚で、自分を孤立させてしまう。彼らは、人を信じられない本当の理由は何もないと、ひょっとしたら気づいているのかもしれない。でも、どんどん生じてくる疑惑や罪の意識や不安感に巻き込まれてしまう。
もしも、彼らがアルコール依存症者か、アルコール依存症の家族出の人と結婚するとなると、問題は倍増する可能性がある。なぜなら、今や、人を信用しない、人と話さない、何も感じないような二人が一緒に住むことになるのだから。他の人から見ると成功しているように見え、楽しく暮らしているように見えるのに、彼らは、なぜ自分の心がむなしく、幸せに思えないのか、その理由が必ずしも分からない。普段、彼らは本当に自分は何か間違っているのに違いないとか、自分は悪人であるとか、病気に違いないとか、気が変になっているのではないかと絶えず思い悩んでいる。

立ち直るためには

アルコール依存症の親を持つ子供たちが親の影響を脱して立ち直るためには、「サバイバル」の段階で何が起こるぺきか?

この段階で、アルコール依存症の親を持つ子供たちにとってまず何よりも必要なことは、「気づき」(過去に受けた隠れた影響に感づくこと‥訳者註)である。何かがうまくいってないと気づくことが変化への入り口である。彼らはアルコール依存症の片親または両親のいる家庭に生まれ育った結果として、自分がある種の生物学的、心理学的脆弱性を持っていると気づく必要がある。いろんなことがうまく運ばないのは、彼らの子供時代の家族のアルコール依存症から生じている。その関係を知る必要がある。
このような気づきは、例えば新聞を取り上げ、アルコール依存症やアルコール依存症の親を持つ子供たちの記事を見て突然起こるかもしれない。あるいは、「アルコール依存症の親を持つ成人した子供たち」と名付けられたセミナーやワークショップ、あるいは学級のあることを新聞で知って気づくこともある。本屋で本を拾い読みしてアルコール依存症の親を持つ子供たちについての本を手に取ったり、アン・ランダーズや誰か地方のコラムニストの文章で、家庭のアルコール依存症によって影響される子供たちについて読んで起こるかもしれない。時に、「やあ、アルコール依存症の親を持つ子供たちについての話があるよ。行ってみないか?」と言って誘ってくれる友達がいて気づくような、運の良いこともある。言い替えれば、ある種の。介入〃が起こる必要がある。この介入は、私たちが「不意の気づき」と呼ぶもので、次の回復への段階を用意する踏み切り板となるだろう。

 

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