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アルコール依存症治療薬レグテクトから抗酒剤ノックビン(ジスルフィラム錠)に変更。強制的に酒を飲めない体質にする訳だから、抑止力の差は歴然。

アルコール依存症の親を持つ子供たちの成長

      2016/12/10

アルコール依存症の親を持つ子供たちの成長

子供たちは教えられたことをその通り学ぶ。だから、アダルトチャイルドは役立つと分かったら全く同じ方法をその後の生活に用いながら大人時代に入っていく。彼らは、身につけ?だ子供時代の役割と生き延びるための戦略やルールを大人時代に持ち込んでいく。後になって分かるのだが、子供時代の機能不全のアルコール依存症の家庭でうまくいったことが大人になってからの生活ではうまくいかない。だが、私たち人間には奇妙なところがある。というのは、自分の行動がもう何の役にも立たないと分かっていても、同じことを何回でも繰り返す。子供時代の役割とルールは一見安全であり健全であるかのように見えるが、両方とも今やほとんど効果がない。アルコール依存症の親とずっと生活する場合は、子供時代の役割とルールは続いていくが、かえってそれはアダルトチャイルドを融通のきかない、常同症的な行動(行動が意味も目的もなく繰り返されてしまうこ)に閉じ込めてしまう。

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子供時代の役割とルールは、アルコール依存症の親を持つ子供たちに後になってどのように影響を及ぼすか?

責任を背負い込み過ぎる子供は、大人になってからもそうなる。彼らは、深刻になり過ぎるし、自分だけを頼り、人を信頼せず、協調できず、リラックスできない。彼らには、物事をあるがままに受け入れることがむずかしい。常に管理され責任を負わされていないと気がすまない。時々飲酒でこの重荷から逃げ出す。アルコールや他の薬物の作用で一時の慰めと心の安らぎを見つけ出す。結局重圧から逃れ、それを忘れることとなる。アルコール依存症の親を持つ成人した子供たちの飲酒行動は、自分にはショックとなり、他人には謎となることがよくある。何か恐ろしい事件があると、あるアルコール依存症者は、目に涙をため心を込めた声で妻に言うかもしれない。「ああ、このありさまだ! 私はもう2度と酒を飲まない」と。別のアルコール依存症の親を持つ成人した子供も同じように正直に一大決心して宣言する。「こんなことは2度と起こさない! もう、決してあんな飲み方はしない」と。男であっても女であっても真剣にそう言う。それでも多くの人はアルコール依存症になる。「ああ、哀れな私」というお題目は「おお、私に酒を注ぎたまえ」につながる。
足を引きずって大人時代に入っていくにつれて、アルコール依存症の親を持つ成人した子供たちは、孤独感を味わい、物事が正しくいっていないという感覚を経験し始める。心の中の対話が、自分は不適格であるという感情のまわりに集まってくる。「私がいい人とはとても言えない」という思いが彼らの心の中に度々起こる。彼らは自分の判断で入力したものを無視することを学んできたから、自分の内部で何が起こっているのかほとんど分からないでいる。彼らはいろいろ感じると非常に危険であると教えられてきた。だから彼らは、どのようにすれば、自分を含めてほとんどの物事や人たちから縁を切れるか、その方法を知っているのである。生活は彼らにとってあまり意味をなさないのである。

アルコール依存症の親を持つ子供たちの重要な問題は何か?

これは興味のある質問である。というのは、一見して多くのアルコール依存症の親を持つ成人した子供たちすべてが共通してこの質問を持っているように見えるからだ。彼らのほとんどは具合が良く見え、きちんと身なりを整えているし、仕事にも成功しているようで称賛される。彼らの多くは、人を喜ばしたり、状況にうまく順応したり、笑みをたたえたりするのに上手で、あたかも「絵本に出ている完璧な人」のように見える。これに関連して私たちは次のようなことを発見している。
例えば、私たちの心理療法に新しく入ってきたメンバーは、「一体私はここで何をしているのだ。この会は私には合わない。ここにいる人は皆立派な人たちばかりじやないか!」と考える。その一回目ないしは2回目のセッションが済むと状況が変わり、彼らは勇気を出して大声でその考えを口に出す。すると少なくともグループのメンバーの1人が、「あなたこそとても具合が良さそうだね、あなたはここへ来る必要なんてなかったのではないかな?」と言う。これは、自分の内面と他人の外見とを比較する例だ。つまりこの比較は極めて不適切だ。
アルコール依存症の親を持つ成人した子供たちは、よく適応しているように見えるから、援助を必要としているとはとても思えない。つまり、彼らは生き延びた人たちなのだ。アダルトチャイルドの直面している問題が、なぜこれほど長い間見過ごされてきたのかあなたは分かるだろう。しかしながら、アルコール依存症の家族に関わっている人たちがほとんど一致して同意するのは、そういう家族のもとでは、たとえ傍観者でも影響を受けてしまうということだ。アルコール依存症の家族の中で過ごすと、すべての者が、肉体的、感情的、精神的な痛手を何らかの形で被ってしまう。
母親が大量に飲み過ぎる場合、妊娠三ヵ月という初期に胎児性アルコール症候群を発症させるようになるかもしれない。アルコール依存症への発生学上の傷つきやすさや感受性はもっと早期の妊娠時点でも起こり得る。
*「発生学」とは受精とか受胎後の発達などの学問である。
統計によると、アルコール依存症の親を持つ子供たちにとっての最大の危険は、何と自分自身がアルコール依存症になることである。アルコール依存症の家庭で育った50〜60%の子供たちは、将来自分自身もアルコール依存症になる。彼らはまた、現在アルコール依存症になっているか、なるだろうと思われる人、あるいは、他の嗜癖行動を示す人と結婚する危険性が高い。しかも一度ならず時には三度も四度もである。
アルコール依存症の親を持つ子供たちのための国民協会(NACA)によれば、アルコール依存症の親を持つ成人した子供たちはしぱしば近親相姦、子供への無視、様々な暴力や搾取の犠牲になってきた。彼らには学習意欲障害、注意集中障害、不安、自殺あるいは自殺未遂、摂食障害や強迫的目的達成などの傾向がある。アダルトチャイルドは不つりあいなくらい多数、少年審判制度や法廷、刑務所、精神保健施設の世話になる。

**「強迫」とは、考え、行動を切迫したどうしようもない気持に駆られて、合理的でなくても押し進めてしまうこと。強迫観念、強迫行動などがある。

さらに従業員援助システム(EAP)の世話になる人々の大多数がアダルトチャイルドである。
アルコール依存症はいわば誰にでも機会均等に訪れる破壊者である。もし自分から回復を図らなければ、誰でも、やがて個人や社会生活の中で問題行動のパターンを発展させてしまう。悲劇的なことは、多くのアルコール依存症の親を持つ成人した子供たちがこの困難の原因を認識していないことである。彼らは、まさに意味を知らないままその痛みを感じ、悩み、緊張や疲れや気分不良、あるいは偏頭痛や腸炎や潰瘍のような他のストレス関連疾患の訴えを持って医院を訪れる。あるいはカウンセラーの事務所を訪れる。そこでは親のアルコール依存症が、実際にはその時最大の影響を及ぼしているのに、それほど影響はないときっと見過ごされるだろう。アダルトチャイルドは心理療法士の担当件数の大きな比率を占める。精神保健の専門家との接触のなかで、彼らはしばしば誤診されたり病名不明だったりする。理由は物事を処理する彼らの姿勢にある。つまり人から賛同されるように務め、社会的に受け入れられようとする傾向を持つからであり、彼ら自身が苦痛の根源を認識していないためである。

アルコール依存症の親を持つ子供たちが、直面しなければならない最も共通した問題点はか?

外見上は何の問題もない個人をさらに厳密に見ていくと、行動上の一連のパターンが繰り返されることに気づく。それは彼らのほとんどすべての人に当てはまるある種の個人的な問題である。ある特徴があまりに普遍的に見られるのである種の人格的特微かと思えるほどである。
スタンフオードアルコール診療所のステファニー・ブラウンとティム・サーマックは、最初にこれらの特徴のいくつかを位置づけた人に属している。彼らの最初の作業は、集団精神療法下にあるアダルトチャイルドに基盤を置いているが、私たちの経験から述べると、これらの「特徴」の問題は治療を求めてきた人たちをはるかに越える広がりを持っていると言える。彼らが一番目に述べている最も主要な問題点は、コントロールについてである。コントロールとは、アダルトチャイルドの相互の人間関係を最も特徴づける一つの言葉である。不安の主な源である「コントロールについての葛藤」が広がる。心の中の考えや感情や行動に気づく時にもそうだが、外部への表現をコントロールしようとする時にも否認、抑制、抑圧が働く。「コントロールできない」時の恐怖はほとんど共通して起こる。コントロールできない状態になると激しい感情を経験することになる。時々、彼らは「過剰な用心深さ」と呼ばれる状態に陥り、いつも自分の前後左右にあるものを知ろうとし、無意識のうちに手掛かりを求め周囲を一心に探し求める。

*この場合の「コントロール」とは、アルコール依存症家庭や機能不全家庭の家族がよく陥る不健康な共依存の1つの側面を指している。両親や他人との人間関係の中で、本来できないことなのに、その人を思い通りコントロールしようとしたり、その人の抱える問題にのめり込んで世話焼き行動をすること。コントロールを強迫的にしようとし、コントロールできないと強い不安に陥る。不安を避けるためにコントロールすることに夢中になる(逃避)こともある。

ブラウンとサーマックが位置づけた2番目の問題点は、信頼である。もっと明確に言えば、不信(自己不信と同様、他人に対する不信)に関する問題である。この不信がいかにして発生するか理解するのは容易だ。アルコール依存症の親を持つ子供たちは、明白なことを無視するように繰り返し言われる。その結果、自分の生きてきた人間としての知恵や感覚が自分に語りかけても、それを信頼しないよう学習する。お父さんは三つ揃いのスーツを着て車庫の床に寝ていて、お母さんの頭はスパゲッティの皿の中に倒れていても、大切なこの2人ともが、「何も間違っていることはない」と言う。これでは子供たちに誤った知識を教え、困惑させ、どうしたらよいか分からないようにさせて当然ではないか! 彼らの胃は痛み、心臓は激しく打つだろう。しかし、子供たちが生き延びるために最も頼りにしている人は「心配しなくていい、たいしたことじゃない。何もかもうまくゆくよ」と言うのだ。
これは、ブラウンとサーマックが述べている三番目の問題につながる。即ち感情を出さずに抑え込む問題である(感情回避)。感じることは間違いであり、悪いことで、恐ろしいことだという根本的信念を作り上げる。アルコール依存症の家庭では、子供の感情表現は典型的な形で非難、不同意、怒り、拒絶に直面させられる。しばしば子供はあからさまに言われる。「そんなこと決して言わないでくれ。そんなことは思ってもいけない」あるいは、「お母さんを困らせないで、あなたはもっと分かってくれなきや」と。言い替えれば、アルコール依存症の親を持つ子供たちは、とても小さい頃から自分の感情は隠さなくてはならないと教えられる。彼らは間もなくいかなる感じ方もしないように学習する。自分を抑圧し、否認し、矯小化することを学ぶ。彼らは一見何と良い子なのだろうか? この良い子がまさに厄介の原因なのだ。
4番目の問題として、まるでそれでも不足だと言わんばかりにアルコール依存症の親を持つ子供たちはまた、いかに「感情」が即「行動」に結びつくかを見ることになる。アルコールの最初の影響が抑制不能と判断力喪失だから、親が酩酊すると、親の抑制のきかない感情の実態を目の当たりする。たぶん父親であろうが、アルコール依存症の親と生活している5〜6歳あるいは1-歳の子供のことを想像してみよう。お父さんが酔っぱらって怒りながら家に帰ってくる。子供たちが酩酊に気づく前にもう物が投げられ、誰かが殴られる。怒りに火がつくとたちまち破壊的行動に結びつく。
このようにして、感情は行動と関連づけられてしまう。一つの強い感情を起こすその見方その考え方は即感情の行動化となる。アダルトチャイルドは感情を行動に弾みをつける潜在的な力として見るのではなく、感情即行動、つまり行動をすぐ起こさせる直接原因として感情を見る。この混沌と混乱の真っただ中で、子供は親の所に走っていき、親の体に両腕を回して、泣きたいかもしれない。でもそうすると、たぶん危ないことになると分かっている。彼らは何が起こったのかを話すことさえできない! この家族の中で生きるために、まして五歳や、十歳であっても、「こんちくしょう!僕は荷物をまとめて、一緒に住む他の家族を見つけるぞ」とはとても言えないから、自分の感情を無視するしか方法がないことを悟る。ショックや怒り、恐怖、あるいは罪の意識は、極めて恐ろしく、危険で、受け入れがたいものだから、自分の気持を処理する最も良い方法はまさに自分の感情を否認することだという結論に達する。その代償に、彼らは内側深く自分を埋没させなければならないのだ。
この事態を一層悪くするのは、子供たちの自己中心性である。彼らは自分を宇宙の中心に見る。
もしも、親が酔っぱらって子供を虐待しようとしている時、子供のほうは自分に何か起こらないだろうかと考えているとしたら、一体どんなことになるかを想像してみなさい。こんな時には、何らかの理由で、何かが実際に起こる。子供たちの持っている魔法的な考え方で、彼らは自動的に無意識的に、自分の考えや感情にはとても力があるから、そんなことを起こしたに違いないと思い込む。
仮に子供が夜中に両親の金切り声や言い争いを聞きながら、ベッドに横になっているとする。そして1人で考える。「僕はお父さんにどこかに行って欲しい。僕はお父さんに死んで欲しい」と。ついには、アルコール依存症の親が事故にあったり、病院に行ったり、引っ越したりしたら、子供は即座に結論づける。「それは僕の責任だ。僕がそれを望んだのだから!」と。でもアダルトチャイルドは、このことをきれいに忘れ去る。さかのぼって考えれば、彼や彼女が、様々な感情や罪の意識を
抱き、非常に難儀するようになったおおよその出発点がこれだった。にもかかわらず、それさえ思い出さないのだ。
これがまた、ブラウンとサーマックが書いている、名づけて「過剰な責任性」という、もう一つの問題点の始まりなのだ。子供たちは、家族の中に起こったことに対して、自分に責任があると信じるようになる。結局、両親が、「もし、お前がそのように口応えしなかったら、もしお前が学校でトラブルを起こさなかったら、俺は今夜飲まんでもすんだ」と言うのは、よくあることだ。これはまさに、普通にある自己中心性の能力を肥大化させるようなものだ。身体的あるいは性的虐待がないときでさえ、子供時代に明白な傷跡がないときでさえ、その子供はなおも絶望的に継続的に責任を感じ、自分が模範的な子供になれば親は飲酒をしなくてもすむかもしれないと努力する。彼は五歳の家族カウンセラーや2十五歳の家族のお抱え運転手として役に立とうと思って、きっと両親の言いなりになるだろう。誰が担っても重荷であり、まして子供には過酷な重荷だ。子供は、アルコール依存症者が飲むか飲まないかを選択できなくなったから飲むのだということが分からない。アルコール依存症者は、子供たちに問題があるから飲むのではない。もしそれが本当なら、私たちはみんなアルコール依存症者になっていよう。アルコール依存症者は飲酒を止められないから飲むのだ。これらの子供時代の体験から、アルコール依存症の親を持つ成人した子供たちは、他の人の感情や行動に対して責任があるように思い込みながら成長する。私たちの観察では、これを特にグループ療法の時によく見かける。もし誰かが怒ると、グループの他のメンバーが即座に自分のせいではないかと思ってしまう。同様に、グループのメンバーが1人欠席すると、他の者は自分が言ったことが原因ではないかと思い込んでしまう。
ブラウンとサーマックが述べている最後の問題点は、アダルトチャイルドが自分自身のニーズを無視してしまう傾向である。アルコール依存症が何よりも優先され、子供はいつも決まって2の次になるという家庭で育てられた子供たちのことを考えれば、理解は容易だ。この家族病は何よりも優先されてトップに来る。家族は、まずその病気の具合を調べておき、それから他のことを処理しなければならない。子供たちはいつもうかがっている。「お父さんは酔っている? もしお父さんが酔ってるなら、その時は、今日何があってもお父さんにものを言わないほうがいい」とか、「お母さんはまた飲んでいる? もし欲んでいるなら、今夜はPTAの懇談会のことを言わないほうがいい。なぜならお母さんは怒ってしまうから」と。アダルトチャイルドは次のように言っている。「私の感情などは重要ではなかった。町で子供が私にいやなことを言って私が惨めになった時、お母さんに本当にして欲しかったのは、お母さんの膝のところに這い寄って頭をお母さんの肩にのせてしばらく抱きしめてくれるように頼むことだった。でも、お母さんが酒を手にして台所のテーブルに座っているのを見たら、私は、慰めてもらうなら他の方法を考えたほうがよいと恩った。お母さんは片手で酒を持ち、もう片方の手で私を抱きしめられないだろうから。私はとてもいやな気分になり、落ち込んで、絶対に抱きしめてもらわなくてもいいとかたくなに心に決めた。私は、抱きしめてくれる人がここには誰もいないと思うようになった時、決して誰にも私を抱きしめさせはしないと心に決めた」
アダルトチャイルドは、自分の個人的なニーズを認めると罪の意識を持ってしまうと恐れるかもしれない。なぜなら、これまで「自分に必要なことは人の負担になる」という気遣いを学習してきたからである。また、他人に何か頼めば、自分の命取りになるような重要事を知られてしまうと恐れることがよくある。ニーズを持てば傷つきやすくなるし、過去には傷つきやすいことで報われることがほとんどなかった。もし彼らが罪の意識や心の傷つきやすさを感じなければ、今度は自分の必要を満たしてくれる人に依存的になり、自分の能力を低く評価して、恩義を感じるかもしれない。これらはすべて、「コントロール」の中で感じることと逆の感情である。それゆえ、個人的なニーズはできるだけ回避され無視され否認されてきたのだ。

他に個人的な問題点はどう影響するのか?

私たちは、ブラウンとサーマックが位置づけた五つの中心的な問題点に加えて、他の問題があることも理解できた。それらは、アルコール依存症の親を持つ子供たちの核心的問題点と位置づけてもよいくらい頻繁に繰り返される。私たちは、公開講義、学級、ワークショップにやってくるアダルトチャイルドと同様、心理療法中の人にもこれらの問題点を観察してきた。その中で最も目立つことは、「すべてか無かの機能」(all‐or‐none functioning)と私たちが呼ぶものである。これは、「すべてかさもなくば無か」と決めつけて、考え、感じ、そして行動する傾向をさす。何事も白か黒かであってその中間がない。物事はすべてが正しいか間違っているかのどちらかである。ほとんどの場合、物事がすべてうまくいく訳でないから彼らにはほとんど全部間違っていることになる。
コントロールが彼らにどうしても必要であるという事実の場合もそうであったように、すべてか無かの機能は他の問題に影響を及ぼしていく。例えば、アルコール依存症の親を持つ成人した子供たちは、すべてか無かの見通しから信頼の問題に近づく。子供時代に親密さの適切なモデルを欠き、親密な情を基本とした人間関係を体験していないために、彼らは大人としての人間関係を確立したり維持することが難しい。極端から極端へと跳んでいくから、一方で彼らは人をすっかり信じて自分のこれまでの人生をとことん話して聞かす。ところがもう一方、そうでない時は徹底して人を信じず、個人的なことは一切分かち合おうとしない。どちらの戦略をとっても効果は上がらない。
すべてか無かの機能は、彼らの感情処理にも特色をあらわす。私たちがすでに述べたように、彼らは感情をすぐに行動と結びつける傾向がある。それゆえ自分の感情を表現したり、相手からの感情の反応を受け止めることをとても嫌うのである。例えば、怒りが表現されたとすると彼らは恐怖とパニックに襲われ、続いて暴力が次にやってくると信じ、人間関係が切れてしまうと恐れるのである。彼らの過去にはよく起こったことであろう。
すべてか無かの見方、考え方をすることは、アダルトチャイルドが自分自身と他人との間に適切で有効な境界線を引くのを難しくする。これは親との場合特にそうなる。そのため彼らは「愛情」を、親を必要とすることや世話を焼いてもらうことと混同する。他の感情もしばしば勘違いする。
例えば、親密と息苦しさとか、自発性とばかげたこととか、リラックスすることと抑うつ気分とかである。この感情の混乱状態は、人との間に境界を引くことや人間関係をさらに難しくする。程度から言うと、この機能不全は、彼らに「いつやっても失敗してしまう」と思いこませるほど深刻なものである。すべてか無かの見方考え方のゆえに、彼らは周囲からの情報をうまく利用できない。
まるでそれは世の中を白か黒かの見方に合わせて無理に体験しようとしているようなものである。
このすべてか無かの機能の特徴はまた、彼らが物事を一歩ずつ進めたり、仕事をやりやすく段階や部分に小分けする能力を妨げる。
コントロールすることへのせっぱ詰まった気持と同じように、白黒をはっきりさせないと納まらない「すべてか無か」の機能は、子供時代の体験が生んだ副産物である。私たちは極端な白黒思考の機能をアルコール依存症の家庭によく見る。多くのアルコール依存症者は、酔っ払った時のエピソードで罪責感情を持っているので、自分が間違ったことをしてしまったと感じている相手から乱暴な行為を振るわれても、それを甘んじて受け入れる。それから、再び酔った時には、それまで腹にたまった怒りの紐がゆるんで人や物に手当たり次第ハつ当たりして怒りを表現してしまう。例えば、ある日、あなたを膝に載せ頭を撫でてウイスキーの臭いをさせながら、「お前はすばらしい、申し分のない子供だ。お父さんをこんなに幸せにしてくれるなんて、お父さんはお前がいなかったらどうしたらいいか分からないよ」と言うような、親とのよくある交流がなされるとする。ところが、次の日、親は2日酔いでいらいらしている。あなたが学校から帰ってドアを開けると、突然誰かがあなたにわめき立てる。「お前は恐ろしい子だ。何でも問題が起こるといつもお前が原因だ。お前はちっとも正しいことをしない」と。言い替えると、あなたはすべて正しいのかすべて間違っているのか、のどちらかである。その中間がない。極端ばかりである。それがアルコール依存症の家庭の生活なのだ。
私たちが繰り返し観察しているもう一つの問題点は「解離」である。解離とは感情の麻庫とは違って、体験の全体性における分離あるいは分裂である。

*「解離」とは、例えば体験や出来事の記憶に感情が伴わないことである。葛藤状況の中で、自己を防衛するために感情を切り離しているためである。

一つの例をあげてみよう。子供時代の大きな痛みの体験を述べている女性が話しながら泣いている。しかし彼女が今どういう気持なのかと問われると彼女は正直に答える。「別に、何にも」なぜ泣いているのかを問われても、「どうしてだか分かりません」と答える。彼女の中で涙と記憶と感情が結びつかないのである。それはあたかも車が期待された通り走り出したが、いったん町の中に出たら、クラッチが切れ、ニュートラルのままでいるようなものである。解離は外面的には「感情鈍麻」とか「自己防衛の機能」として説明されよう。解離を引き起こすと、多くのアダルトチャイルドはまるで麻薬や催眠で茫然自失になっているような外見に見える。それはあたかもポーッとした霧の中にいるようなものである。
アルコール依存症の親を持つ成人した子供たちの多くは極端に恐怖に満ちた状況や出来事を、まるで当たり前の毎日起こる出来事であるかのように話す。その中で乱暴な出来事に注意が向けられると、大きな目を開いて、「ええ、それは普通じやないんですか? わが家ではいつもそんなですよ」とびっくりした反応をよく示す。例えば、最近あるクライアントは、家族が喧嘩をしている間、どんなふうに傍に立ってわめき声を問くようにしているか説明している。立ち聞きするためではなく、必要であれば警察や救急車を呼ぶためにである。彼は、兄が自殺したことや、今では姉が母親に暴力を振るうことに言及する。これをすべてかすかな笑みを浮かべて静かな声で言うのである。彼の感情がどんなであったにせよ、彼は感情と自分を全く切り離していた。まるで淡々として、伝えている内容が彼に一片の影響も与えなかったかのようにである。
私たちが経験するもう一つの問題は、アルコール依存症を抱える家庭の混沌とした環境の中で、子供たちはアドレナリン常用者(adrenalin junkies)の如くになるように育てられる傾向があることである。

**アドレナリンは副腎のホルモンで、血液中の濃度が高まると強い緊張・興奮をきたす。「アドレナリン・ジャンキー」は、興奮や紛れを好んで求める人や平穏な生活だと憂うつになったりバランスを失う人を指している。

アダルトチャイルドは度重なる危機や緊急事態に慣れてしまって、生活が安定し何事も起こらないようになると抑うつ気分や不安に陥ってしまう。生活が平穏で人との関係がうまくいっているその毎日が実は心がふさぐ原因だと分かるまで、何年もかかるだろう。この時点で、彼らはよく物議をかもす。次から次へと危機を生き延びることが生活の最大目標になり、危機感がないと禁断症状を引き起こしてしまう。彼らが生きていると実感し、何かに関わっていると感じるためには、他の火急なこと、アドレナリンの突撃が必要なのだ。その結果、エネルギーのほとんどが毎日の危機処理に使われ、将来を築くためには残されない。
これらの問題点は、アダルトチャイルドの自尊心が極めて低いという問題につながっていく。彼らの自尊心が低いのは自分を信頼せず、自分の気持が分からないことから生じてくる。また、物事を「すべてか無か」の方法で見ることから生じてくる。そのために、彼らは、自分たちが達成したものが完璧でなければほとんど価値をおかない。それは、彼らのニーズが押しつぶされ、最低に見られ、無視された子供時代から生じてくる。また、いつも約束が破られる世界で生活しながらも、自分の家庭の問題に何とか責任をとろうと心に決めて生活に当たってきたことから生じてくる。彼らは、自分を価値ある立派なものとして見ることができない子供時代を過ごしたがゆえに、自分が大切にされる権利や、自分からすべきこととしなくてもいいこと、耐えるべきことと耐えなくてもいいことの間に線を引く権利があることを認識しにくくなっている。すべてこのせいで結局個人の権利感覚を持てない大人になっていく。

どんな状況で、問題が浮き彫りになるのか?

私たちは、ある種の状況や出来事が、これまで述べてきた核心的問題点を執拗に引き起こすことを観察してきた。これは特に、信頼や暖かさ、分かち合いや自発性、それに柔軟性をとりわけ必要とする状況、要するに親密な人間関係の中で実によく見られる。これは、アルコール依存症者の子供が「何か間違っていないか?」と自覚する一つの領域である。また、アダルトチャイルドが治療に行き援助を求めることになる領域である。彼らは親密な人間関係の中では、繰り返し繰り返し矛盾する感情に苦しみ無益な行動パターンをとるものだと分かってくる。たぶん、彼らはつぎつぎと苦痛に満ちた人間関係を通ってきて、そしてついにはあるパターンを疑う。彼らは繰り返し、役立たない人、支えになってくれない人、アルコール依存症や他の薬物に依存している人、あるいはとても依存的で貧窮している人と連携する。親密な人間関係の中で直接苦しんできたから、家族の中にアルコール依存症者がいると言って、セラピストを思いわずらわすようなことは滅多にしない。
仮に言ったとしても、ほとんどの場合セラピストは、「お母さんとお父さんの他のことを話してごらん」と話題を逸らし、アルコール依存症の影響を顧慮せず無視してしまう。このアダルトチャイルドは、親のアルコール依存症に気づいていなかった可能性があり、まして人に話ができることもなかっただろう。信じられない話だが、アルコール依存症の親を持つ成人した子供たちの40%以上が、親がアルコール依存症であることを知らないまま家を出ている。だが、家を出る以前に、なぜアルコール依存症の親を持つ子供たちは親密な人間関係を作るのが苦手なのか明快に分かっているべきなのである。すなわち、人間関係を親密にするには、「お互いのギヴアンドテイク」や「コントロールの放棄」が必要だし、自分を一人の人間として、気まぐれで間違いもしでかすものだと考え、他人も自分も同じだと考える能力が必要である。
生活に大きな変化をもたらす出来事は、核心的問題を引き起こす触媒の役割を果たす。これらは、人が重要な変化を遂げ、新しい事態に出会い、過去からのパターンを統合しなおさねばならない大きな生活の変化をさす。大きな生活の移り変わりとしては、転職、引っ越し、子供の誕生、家族の死、結婚、離婚、大人になったり中年になったりすること、大学入学や卒業などを含んでいる。すべてが新しい環境への適応を求める。未回復のアルコール依存症の親を持つ子供たちは特有の「硬直性」を大人の年齢まで持ち込んでいくので、円滑な変化をむずかしくする。それどころかアルコール依存症の親を持つ成人した子供たちは、しばしば変化に抵抗し、過去のパターンに固執する。
例えば、インクペンに固執し、近ごろはインク消し付きのものもあることさえ忘れているのである。さらにもう一つ別の引き金になるものとして予期せぬ出来事がある。状況を予測したり、返答を準備したりする時間がないとアルコール依存症の親を持つ成人した子供たちは無意識のうちに習慣的な古い行動パターンに陥る。そのパターンは、子供として生き延ぴるのに役立ったが今や大人としての幸せを妨げる。彼らは不安になり、心を閉ざし、混乱した行動に陥り、今起こっていることを否認する。同様に家族とのお喋りで古い反応を復活させることが多い。
仕事の出来映えが関係する状況もまた引き金となる。目の前に一つの基準や作業水準が示されると、アルコール依存症の親を持つ子供たちはその基準を達成できないのではないかと自分の力を心配する。彼らは、不安や「すべてか無か」の考え方で「私は失敗者」で不適切だという判断や「罪の意識」、「自尊心の欠落」を追体験する。たとえその場に多数の人が関係していても、彼らは責任を全部引き受けてしまうかもしれない。彼は「仕事中に作業がうまくいかなかった。それは私の責任だ」と思い込む。重要な締切日が追ってくると、自分たちの仕事がどんなに良い出来映えであっても、十分に満足のいく出来映えではなかったと独り言を言う。必ずしも整然と完璧に物事をしなくてもよい時でさえ、自分たちは何か間違いをしていると思わないではいられない。実際のところ、仕事の重要性よりも完全に成し遂げたかどうかと心配する不安の方に比重がかかる。つまらない仕事であっても、彼らの力量の全体を示す報告書になると思ってしまう。
普通の人の生活の中でも起こり得るこれらの出来事は、アルコール依存症の親を持つ子供たちの抱える核心的問題点をしばしば活性化させる。アルコール依存症の家庭で受けた子供時代のトレーニングに光を当てると、それらが困難の原因になっていることがはっきりと理解できる。

なぜ休日を恐れるのか?

休日が近づくにつれて、アルコール依存症の親を持つ成人した子供たちは不安や抑うつや混乱の感情を募らす傾向がある。彼らにはなぜなのか分からないことが多い。休日のことを考えるのは、彼らがゆっくりと座り、子供の頃の休日がどうであったかとあれこれ考える時だけであり、それも感謝祭やクリスマスや大晦日の多くの嫌な体験をますます鮮やかに思い出すだけである。多くのアルコール依存症の家庭にとって休日は、どんちゃん騒ぎの日になるだけである。アルコール依存症者にとっては、休日の飲酒は公認されているとばかり、飲んで飲みまくることになる。飲み続けるうちに、コントロールをだんだん失ってますます酒浸りになり動けなくなる。だから、子供は、休日を通して家族全体が危機に陥るのをしばしば見る。家族の争いはますます頻繁に起こり、両親の間が一層うまくいかなくなり、他のアルコール依存症の親類の人が訪れてくるかもしれないし、多くの要求が次々と出されることになる。この雰囲気は、最も良い場合でも恐くてびくびくする状態であり、最悪の場合は身体に危険を感ずる状態となる。侮辱された上に、ひどい目にあわされ、それに加えて子供は責任を感じ始める。そして「もし私が一生懸命言われる通りにしていさえすれば、お父さんもお母さんもこんなに飲まなくても、こんなに争わなくても、こんなに不幸でなくてよかったのに」と思い始める。休日が巡ってくると罪の意識が復活する。休日の「楽しみの季節」が近づいてくると、アルコール依存症の親を持つ子供たちが詫ぴしく思うのは別に驚くことではない。アルコール依存症の親を持つ子供たちは、おそらく休日の間に彼らの家で起こることと他の家で起こることとを比較する。友達はわくわくするような幸せですてきなひとときについて話す。他の家庭はとても良い生活をしているように見える。彼らの「すべてか無か」の思考が、彼らに自分以外はすべての人が幸せだと確信させてしまう。このことは彼らの喪失感、離別感、孤立感、異質感を高める。このすばらしい休日にいかにいろんなすばらしいことが起こるのか。 数え切れないほど多くのメッセージがアダルトチャイルドに伝えられる。テレビのコマーシャルや広告がその時のお祭り気分をかきたてる。いかに多くのアダルトチャイルドが休日を狂気じみていると感じていることか。彼らは2つの正反対のメッセージを体験する。彼らの神経システムは休日は苦痛であると言い、一方、他の人は誰もがそれは楽しいと言う。それは子供時代の、両親は何も間違っていないと言うが、自分たちはあたかも何もかもが間違っているように感じたまさにあの通りなのである。
休日の間両親と過ごそうと思うのは、アルコール依存症の親を持つ子供たちにとっては勝ち目のない勝負をするようなものだ。彼らが休日を家族と過ごそうと決心するなら、心の中で「いいよ、この気違いじみたコントロールを失った酔っぱらい行動を全部我慢しよう」と言っているようなものだ。逆の場合には彼らは言うだろう。「いいや、私はそんなことをするつもりはないよ。休日に家に帰って家族と過ごすなんて、その気はないよ」と。そう言いながら罪の意識を感じるのだ。彼らは悪い子供を再現したように感じる。もちろん「良い子」とは家に帰り、家族のために必要な侮辱のすべてを受けることだ。そして時には、飲酒は家族への入場券になる。家族と共にいる唯一の方法は飲むことだから。
回復していないアダルトチャイルドがこれらのすぺての影響を認識しているとは限らない。彼らは苦悩の原因がどこにあるのかを分からずに感情を動揺させる。その上、自分の気持は受け入れてもらえないし、思ったことを口に出しても言えない。再び彼らは訳もなく苦しむ。彼らにとって休日はしばしば茫然とした休日として体験される。

私が核心の問題点に直面しながら自分自身の面倒をみる時、最善の方法とは何だろうか?

この質問に対する回答は、アダルトチャイルドがこの前後のどの段階で、どのように自分の面倒をみるかという問いに対する答えと似ている。しかし、この「核心の問題点の段階」が非常に重要な特別の時期であることを認識し理解することが、この段階にある時には殊のほか重要である。ひとたび、アルコール依存症の親を持つ成人した子供たちが過去の影響を知り受け止めると、彼らは大人として悩んできた核心の問題点に対処する準備ができる。もしも家族のアルコール依存症が無視されたり矯小化されるならば、彼らの進歩は非常に速度を落とすか、全く進歩しないことになる。そんなわけで精神療法中、親のアルコール依存症に対処していない多くのアダルトチャイルドはまごつくし、効果を上げることができないのだ。基礎を欠いては建物の多くは建てようがない。アルコール依存症について知り、アルコール依存症が家族それぞれにいかに影響を与えるかを知って初めて、何が起こっているのか、理解すべき状況が見えてくるのである。
あなた自身や他人に対する新しい姿勢の獲得がこの段階では極めて大切である。この姿勢によってこれから起こる変化への準備ができる。真っ先に批判するよりもよく調べてみるほうがずっと良いという姿勢をとるよう努力しなさい。あなたが問題の領域を発見したらむしろ感謝しよう。結局それはいつでもそこにあったのだ! 審判的になるのではなくて、物事を見る新しい方法、新しい意味づけ、新しいつながりに心を開こう。あなたがたくさんの情報を集められる時が来るまで、自分や他人に対する結論はほとんど出さないようにしよう。飛び込む前に水の深さがどのくらいか知ることだ。ここで再び言おう。ゆっくり構え、自分なりの時間をとり、忍耐強くすることが大切だ。
あなたが今いるところに到達するまでに何年も要したことを思い出しなさい。つまり、一日ではすべてを調整できないのだ。
この姿勢を発展させながら、一方であなたは指導者や相談できる人の助けを求めた方が良いと思う。アルコール依存症の親を持つ成人した子供たちが必死になって学ぱねばならないことの一つは、手を伸ばして援助を求めることである。この段階になったら、「私には何か援助が必要だと思います」と自分から言いなさい。あなたがまだやっていなかったらすぐにもセラピストを探したほうがいい。セラピストを選ぶにあたって私たちが言ってきたことはこの段階で当てはまる。あなたはきっとアルコール依存症についての教育を続けて受けたいと思うだろう。もしあなたがアラノンのミーティングに行ったことがなければ、今こそ参加すべき時だ。この援助組織があなたにできることをよく調べなさい。アラノンのミーティングはそれぞれすべて違うので、数回出席をして調べてみなさい。大部分の集まりでは、アルコール依存症の親を持つ成人した子供たちに向けて特別なミーティングを行なっている。そこではあなたは失うものは何もなく、むしろ得ることばかりだと思う。もしあなたが他の人たちから孤立していると思うならば、それはあなたが困っていることを示す危険信号の赤旗だと思いなさい。この段階には他の赤旗がいくつかあり、ここで援助を求めるべきだと示唆する目印になる。例えば、(1)あなたが学び、体験し、見たものすべてに圧倒される場合、
(2)次にどうしたらよいか、あまりにも漠然として考えがまとまらない場合、(3)話せる友達や
家族が1人もいない場合、(4)行き過ぎた批判を自分や他人に向ける場合、(5)強い抑うつや心配、不安感や恐怖感が起こる場合、(6)度重なる不眠の発作、そして(7)大きい問題、すなわち、行き過ぎたアルコールや他の薬物の摂取がそうである。もしあなたにどのような援助が必要なのかはっきり分からないなら、何らかのフィードバックをしてくれる信頼できる人と接触を持ちなさい。そのフィードバックは、あなたが援助を必要としているかどうか、もし必要ならどのようにしてそれを獲得したらよいかを判断する助けになるだろう。

核心の問題点の段階での落とし穴は何か?

私たちは前の質問の中で指摘したように、あなたが自分の面倒をみないとか、その必要を認めないとかいうことはよくあることだ。あなたは今学んでいることをすべて理解したとしても、自分はまだ家族の中のアルコール依存症者の影響を受けていないと信じているかもしれない。つまり、あなたの両親は性的にも身体的にもあなたを虐待しなかったと。実にそこが大きな落とし穴なのである。親のアルコール依存症の影響を矯小化し続けることがそうなのだ。あなたは子供時代に実際には必ずしもそれほどストレスや傷を受けなかったと自分に言って聞かせる。あるいは恐らくあなたはアルコール依存症者とその配偶者(共アルコール依存症者)、その他の家族全員を含めて、万事をうまく治めるには今をおいてはないと考え行動に走るような経験をするだろう。伝道師のような熱意ですべての友達を教育し、酒を飲む人に注目し、その飲み方を評定し、アルコール依存症だと診断をすることに没頭するかもしれない。これはすべて自分の困難から目をそらせることになる。他方では、あなたは学習する新しい事柄すべてにすっかり圧倒され、もう勉強はたくさんだと思って、「うんざりだ。私の生活をこれ以上良くすることなんてできっこない」と言うかもしれない。先の
見えない絶望感がしぱらくは強くなる。それが大きな落とし穴である。
もう一つの落とし穴は、あなたが自分の感情と行動とを混同することだ。例えば、あなたが打ちのめされて参っているにもかかわらず、それでもなお朝ベッドから起きだし、洋服を着て、髪をとき、歯を磨く。しかも仕事に出かけ、家のまわりの雑用をする。言い替えれば、とても辛い状況にありながらあなたはなお役目を果たそうと働き続ける。これが珍しいことではない! あなたが核心の問題点に立ち向かい始めると、お決まりの毎日の仕事はいよいよ大変な仕事になってくる。それらの仕事に向けるエネルギーがほとんど残っていないからだ。なぜなら、アルコール依存症の親を持つ子供として理解したり学んだり自分に対処したりするため、あなたの多くのエネルギーを使いきっているからに他ならない。それなのにあなたは、まだ治っていないとか、取り戻せていないとか、何もかも今うまくいっていないとかいう理由で感情に駆られて自分を咎めるだろう。そして独り言を言う。「結局、問題点はもう分かった。もっと役に立たなくてはならないのだ。どんな言い訳もできない」と。あなたが自分にもっと優しく、もっと理解してやれば、この落とし穴は避けられる。
たぶんアルコール依存症の親を持つ成人した子供たちにとって、何よりも大きな落とし穴は、アルコール依存症の知らぬ間に広がった姿の見えない影響と、子供たちが直面する核心の問題点の持つ奥深さを過小評価することである。その一つの結果として急速な回復を願うが、実際はそれは期待できない。それから、もしあなたが辛い目にあうと、自分を責め、自分の力で自分を治すことは完全に失敗したと思うかもしれない。このようなすべてか無かの傾向に警戒しよう。それは、すべてか無かの思考、すべてか無かの感覚、あるいはすべてか無かの行動として現れる。それは非常にとらえ難くかつ恐ろしいとすら言える。すべてか無かの態度で自分の回復を考えているなら、あなたは自分に対して公正とは言えない。深い傷を癒すには長い時間が必要だし、処置はたやすい問題ではない。アルコール依存症の家族の回復には、アラノンヘ数年間積極的に参加し、他の治療の併用が必要だと示唆されている。

学習過程から離れて他に時間を割くのは落とし穴ではない。これもまた心に留めておきなさい。これは、生活を高める積極的な方法であり、自分にとって正しいことは何かと適切に判断した印である。例えば、休憩をとって、この本の読書をやめ、当面の問題について考えるのをやめたいなら、ぜひそうしなさい! 回復はあなたのペースで進むのであり、あなたが回復のペースで進むのではない。

アルコール依存症の両親をどのように扱ったら良いのか?

反復こそ私たちすべてにとって学習の基本的要素である。だから私たちは、この前の章でも強調したが、あなたは親や親の飲酒について直接関わる必要はないとここでも強調したい。あなたには両親を教育したり間違いを正したり対決したりする必要はない。あなたには自分のことだけでもしなければならないことがとてもたくさんある。あなたが両親の面倒をみたいという強い衝動に駆られる時でも、あなたの回復のためには自分に向かって次のような質問をすることが重要である。すなわち、なぜ今私はこんなに両親のことで心が一杯になるのか? 今ここで実際私が助けようと試みている人は誰なのだ? 実際私がしようとしているものは何なのだ? もしあなたが第一番に両親の問題を解決したら自分の問題も解決するだろうと考えるのは誤りである。それは回復への道ではない。あなたの回復は両親の回復とは関わりない/・ アルコール依存症あるいは共アルコール依存症であると両親が認める必要もない。両親があなたの勉強について知ったり、していることを認めたり、あるいは心配してくれたりすることもあなたの成長にとって必要のないことである。もしあなたの片親あるいは両親が故人であるなら、やはり親から頁ったメッセージや今も親に抱いている感情を整理しておくことが重要である。それには専門家の助けを借りるのが一番良い。たとえ両親が亡くなっても、両親との間で生じた昔からの問題のいくつかを解決することができるような専門的で強力な治療法があるのだから。
もしもあなたの両親が近くに住んでいたりまだ一緒に住んでいるならば、たぶん学習や回復が進むにつれて、あなたの不愉快な思いは増していくだろう。これは評価できるサインである。あなたが変わってきた印である。この場合アラノンのような支援グループを探しなさい。アルコール依存症の片親あるいは両親とあなただけではきっとうまく対処できない。例えば両親の飲酒の支え手(イネイブラー)になることをやめるのは非常に心が痛む。

*「イネイプラー」はイネイプリングをする人を指す。「飲酒の支え手」と訳されることもある。

そうするのは冷酷で面倒見が悪いように見えるからである。「飲酒を支えてしまう行為」(イネイプリング)という用語を理解するには実に時間がかかる。

**「イネイプリング」とは、アルコール依存症者や他の嗜癖行動をとる人の責任を肩代わりしたり、お説教したり、愚痴をこぼしたりして結果的に嗜癖行動を持続することを支えてしまうことを指す用語である。

だから、あなたを助ける人がよくアルコール依存症について知っていることが重要なのである。もしも親の命が切迫して危険な状態になり緊急に措置する必要があるならば、あなたの介入は役立つかもしれない。介入は、アルコール依存症者の身近な人々にとって愛情の対決となる。この状況を上手に切り抜けるためには、アルコール依存症の治療家、機関あるいは病院の薬物依存の治療部門と接触しなさい。あなたが介入を心に決めた場合、専門家はあなたを手助けして必要とする教育を与え、あなた自身の回復を早めることにもなる。あなたが回復期に向かったら、何よりも必要なことは自分にまず最初に優先権や時間や注意や愛情を与えることである。これを常に忘れないことだ。

この問題は多くの人に当てはまるように思える。アルコール依存症の親を持つ成人した子供たちだけに特有なのか?

これらの問題は確かに他の人たちにも当てはまる。特に混乱状態になったり機能不全になった家族の中で育った人に当てはまる。この問題では、あなたは家族療法の卓越した名士バージニア・サターを思い起こすだろう。彼女は、家族各人がストレスのもとにある時にとる一般的な役割行動を明らかにしている。家族員は情緒的にも、身体的にも自分の幸せを犠牲にしてまで、家族システムを守ろうとして家族の役割を果たし非常に懸命に動く。サターは四つの主な役割を位置づけた。すなわち、誰にでも同意し、自分の価値を感じとれない「慰め役」、誰とも一致できず孤独で成功感を持てない「咎め役」、物静かで論理的であるが傷つきやすい「過度に道理をわきまえた役」、そして何を言っても通じず人の心配が通じない「注意散漫な役」である。ストレスの多い家族がすべてアルコール依存症とは限らないが、アルコール依存症の家族はすべてストレスの中にいる。この章で述べている問題点はアルコール依存症の親を持つ成人した子供たちに特有ではないが、彼らに特に著しく見られる。だから、ある人が回復していないアダルトチャイルドであるとするなら、彼はたぶん、コントロール、すべてか無かの機能、信頼、貧困な自尊心などなどの重要な問題を抱えていることが私たちには分かるのである。アルコール依存症の親を持つ成人した子供たちが、これらの特徴的な行動パターンを捨てて自由に動こうとしても、頑固で融通がきかないから動けないのである。これは主として否認のせいである。多くの混乱した家庭にもあるにはあるが、「否認の特徴」はアルコール依存症家庭の品質保証マークといえる。これは家の中で起こっていることを話すチャンスがほとんどないか全くないことを示している。アルコール依存症のように問題に対する否認が働けば、その影響を処理する機会が全くなくなる。なぜなら、その形容もまた否認され、他の何かのせいにされるからである。

異文化の、あるいは少数民族のアルコール依存症の親を持つ成人した子供たちにはあてはまるのか?

最初のほうで述べたように、アルコール依存症の領域の専門家たちがアルコール依存症の親を持つ子供たちに関心を集めだしたのは、ごく最近のことである。さらに「成人した子供」(アダルトチャイルド)に焦点を当てたのはそれよりもっと最近のことである。そういうわけで、アルコール依存症の親を持つ成人した子供たちを全般的に記述している研究は少ない。まして少数民族のアダルトチャイルドについての論点や問題点を明らかにしようとする研究はずっと少なくなる。異文化におけるアルコール依存症に関する情報は相当少ないが、私たちは文化が重要な影響を与えていることを信じて疑わない。異なった文化の中ではアルコールの果たす機能は異なっている。それぞれ異なった文化集団では、アルコール依存症に対して同じ見方をしないし、家族員や地域社会の役割も、アルコール依存症の治療や予防においても異なるであろう。一般的に、少数民族のアルコール依存症の親を持つ子供たちが英国系文化への同化の程度が大きければ大きいほど、この本の意図する目的がかなりよく当てはまると思う。少数民族集団の人々に影響を及ぼすアルコール関連の特別な問題を理解するためには、その様々な集団の政治的、社会的、経済的な価値基準に注目する必要があるし、さらに、これらの基準がメンバーの考え方、感情、行動にどのような影響力を持つかを見極めることも必要だ。もっともっと多くの研究がなされてはじめて少数民族のアルコール依存症の親を持つ子供たちが採り入れる役割や、大人として出会う核心の問題について述べることができる。一方、私たちは、少数民族の人々が家族のアルコール依存症に対しどんな種類の問題に直面しているかはっきりさせる努力をするよう勧めたい。例えば先住アメリカ人(アメリカインディアン)の間では、アルコール依存症が主要な健康問題である。最近のアルコール依存症に関する国家委員会の政策方針書では、先住アメリカ人の大学生の80%と高校生の50%は、家族のアルコール依存症が原因で退学すると述べている。アルコール依存症を抱えた先住アメリカ人の家庭の子供たちは、アルコールの使用について矛盾した情報を問いている。つまり彼らは男性の家族員が過剰に飲酒すれば相手に喜ばれると理解している。連邦政府が確認している五百に近い各部族はそれぞれがユニークな文化の型を持っているにもかかわらず、多数の部族が同じようにアルコール依存症を霊的なものの病気と見なし、体の病気とは見ていない。それを、しばしば超自然の力による悪行への罰として見るのである。この見方がアルコール依存症の病気としての位置づけや効果的な治療を困難にさせている。
アメリカのヒスパニック系住民(ヒスパニックという言葉は、メキシコ人、メキシコ系アメリカ人、キューバ人、プエルトリコ人、中南米人を含むスペイン語系の人々について用いられている)の間では、アルコールの使用と乱用に関していくつかの共通する特徴が見られる。ヒスパニックの家族では、伝統的に目上の人に対して敬意を表するので、秘密主義と否認の覆いを破ることがむずかしい。「不意の気づき」の段階は特に困難になる。それは、自分たちの子供時代の現実を知って、一般に家族内の道義問題だと思っているものを世間に公表したり、家族を「裏切る」ような行為を体験し始めるからである。個人的な問題を公にすることは家族に侮辱を与えるのと同じなのである。子供たちが親と対等に向き合う機会も対決を認めることも通常ほとんどない。一人のメキシコ人が断固として言うには、「私の母親が酔っぱらいだって、そんなこと関係ないさ。 母親は辛い人生を送ったよ。ずっと働き通しで、子供を全部育ててきたのだ。母親が年取って飲みたいのなら、飲みたいだけ飲ましてやるさ/」ということだ。アルコール依存症はほとんどが病気の末期段階になるまで分からない。というのは大量飲酒をしても、経済的に負担を背負い切れなくなるまで耐え
てしまうからである。
黒人社会では、道徳的な弱さがアルコール依存症の発端であると一般的に見られている。アルコール依存症は病気であるよりもむしろ道徳的な問題であるとする信念があるので、多くの黒人家族は専門家の援助を受けないできた。飲酒による負担を家族がどうしようもなくなった時、家族の他のものは、精神保健の専門機関よりもむしろ近親者や教会の地域ネットワーク、支援目的の社会クラブを頼る。
少数民族のアルコール依存症の親を持つ成人した子供たちは、特に自分たち自身の要求に今までと違って敏感になる必要がある。また回復過程で、支援する友人グループを作る際にも、極めて誠実な態度で当たる必要がある。この心がけをしてはじめて少数民族のアダルトチャイルドは、この本や他の関連した文献から自分に合うものを利用できる。「結局」と一人の少数民族の仲間は言った。「痛みはやはり痛みなのだ」と。基本的なものの多くは同じだろう。

どうしたら私は解放されるのか?

私たちが次のように述べるととても驚く人がいる。すなわち、アルコール依存症の親を持つ成人した子供たちが持っている明らかなすべての弱点も、正しい見方をすれば一種の財産と見てもよいということである。例えば、それ自身は弱点になるが、コントロールする能力や責任感を持つことがすばらしい財産であるような状況はたくさんある。私たちはこの本の校正係がぜひアダルトチャイルドであって欲しいと思う。
私たちはある精神療法グループに入っている1人の婦人を思い出す。彼女は古い自動車を持っていた。それは正真正銘古びた自動車であった/ その車はくる日もくる日も家の前に置かれていた。なぜならそれはもう役に立たなかったからだ。走らないばかりか目障りにもなっていた。塗料は色あせ、へこみ、タイヤはぺちやんこで、埃だらけであった。オイルが下から地面に漏れ出て草が下で枯れていた。近所の人はこのポンコツを見るといつも苛立ちを感じるのだった。彼らは彼女に何とかして欲しいと言った。彼女は、もうこの車はだめだから動かせないと言い張った。ある週末にクラシックカーの展示会が町にやってきた。ほどなく、近所の人はその婦人が自分の車で作業をしているのを見かけるようになった。彼女は自動車の修理学級に参加し、それに関する本を何冊か読んだ。間もなく彼女はエンジンを動くようにした。トランスミッションを動かそうと何人かの専門家を雇った。というのは自分では修復できないからだ。彼女が大いに驚き胸をなで下ろしたことには、思い込みとは違って車はほとんど悪くはなく、結局誤った使用によるものばかりであった。
彼女は毎日きまって1〜2時間を修復計画に従って作業に費やし、作業を一つずつやり遂げていった。まるで人間と同じように車も世話する必要があると思ったようにである。壊れた部品を手間をかけて修復した。車体を美しい明るい色に塗り、新しいタイヤを買った。ついに彼女は以前には動かなかった煩わしい車を価値のある由緒のある自動車に作りあげた。
私たちは、あなたに、自分をある新しいやり方で見つめ直すよう提案したい。あまりに性急になり過ぎてこれらのマイナスの性格を皆投げ出す必要はない。投げ出す代わりにそれを大事にして作り替えなさい。それが今のあなたの生活の中でどんな価値を生み出すかを考えなさい。あなたの愛情のこもったまなざしと、他の人から受けるちょっとした援助で、あなたは一歩一歩変化を遂げることができる。核心の問題に向き合い、あなたの問題の特質に新しい洞察を加えるなら、あなたもまた新しい強さを発見すると思う。実際には変化の過程を自分から楽しんでみる余裕さえできるはずだ。

 

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