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アルコール依存症治療薬レグテクトから抗酒剤ノックビン(ジスルフィラム錠)に変更。強制的に酒を飲めない体質にする訳だから、抑止力の差は歴然。

座談会ーアルコール依存症に立ち向かう

      2016/12/10

座談会ーアルコール依存症に立ち向かう

本人と家族の苦しみを支えた絆

酒を飲み続ける身体の「病」

司会‥本日はお忙しいところをご出席いただきありがとうございます。今日我が国の大量飲酒者は約236万人と推定されており、アルコール依存症に対する相談・治療・リハビリテーションの体制はしだいに整備されてきつつあります。しかし、まだ多くのアルコール依存症者やご家族がこの病気で苦しんでいることは事実です。また近年では依存症の対象も広がり、単にアルコールだけではなくギャンブル依存や買い物依存、そして何よりも若者を中心とした薬物依存などへの対応が迫られています。今回はいろいろな依存症の中でもおそらく最も古くから社会問題化され、人数も多いアルコール依存症を取り上げます。
皆さんはアルコール依存症から回復されたり、ご家族として回復を支えてこられてきたわけですが、まず初めにアルコール依存症とはどんな病気であるとお考えなのかをうかがっていきたいと思います。石田さんはいかがですか。アルコール依存症という病気は石田さんにとってなんなのでしょうか。

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石田‥我々AAのバイブルのようになっているビッグブックと言われる本がありますけれども、その中でアルコール依存症は狂気、あるいは死の門の中にまで至るというふうに書いてあります。まさしくその通り、実際酒を飲んでいたときに私は血圧が200いくつまで上がっていたんですよ。普通の人だったら何とかしようと考えますけれども、私にとってはそれが会社を休めるいい理由だったんです。年に一度の会社の健康診断で、血圧を計ると要精密検査だと言われます。当然会社の雇い主の方もそれ
を承知していますから、もうそれで休める理由ができた、そんな感じです。あのまま飲み続けていたら自分はどうなったのかということですよね。実際脳出血などで、体が不自由になった人もいっぱい見ています。私もあのまま飲みつづけていれば、ひょっとしたらそういうふうになっていたのかもしれません。
私は三ケ月半、連続飲酒をしていました。雨戸を閉め切って朝昼晩、夜中、明け方、もう時間構わずというのかな、ちょっと寝て目が覚めれば飲む。自分ではやめたいけれど、止まらないという状況が三ケ月半続いたわけです。そして何を考えたかというと、死ぬしかないというふうに考えました。この酒をやめるにはただ死ぬしかないと。同じように考えて、亡くなった方が知っている限りでも何人かいます。あるいは体を壊したり、家庭を壊したりとかそういう人もいます。酔っ払って車にはねられた人もいます。電車のホームから落っこちた人もいます。いろんな人がいます。ビッグブックには死の門の中まで追いかけていくくだりがあるんですけれども、まさしく死の門とはそういうことなのではないでしょうか。
そして狂気の世界、狂気ということでは、例えば自分の血圧が200いくつあったとしたら、普通の人だったら酒を控えるとか、なにか生活
習慣を変えるものなのに、私はそれを会社を休んで酒を飲むためのいい理由にしたわけです。まさしく普通の人からみれぱ狂気の世界でしょう。酒のせいで結婚を一度失敗してるんですけれども、実際に別れましょうとなったときに、真っ先に何を思ったかといったら、これでゆっくり酒が飲める。当時小学校五年生と三年生の子どもがいましたが、その子どもたちのことは最初にでてこなかったですよ。これでゆっくり酒が飲める、そういった考え方になってしまう。それでも私はそこで止まったというか、それ以上には至っていなかったのでよかったのかとも思います。
私は、おかげさまで一度の精神病院の入院だけで、酒をやめることができました。これが2度3度4度となってくると、やはりどんどん考え方も変っていくかもしれません。例えば、どこかに家族で出かける
というときにも一杯飲まないと出られないんですよ。それも、一杯といったって普通の一杯じゃないですよね。焼酎三合から四合です。普通の人だったら潰れてしまう量だと思います。家族を車に乗せて出かけるのに、そんなに酒飲む人はいませんよ、アルコール依存症者じゃない限り。しかもそれが正しいんだと思っている。狂気というんですかね。これでいいんだと、そういうふうに思っている狂気かな。まさしく私は飲みながら狂気で死の門の中にまっしぐらに向かっていた、そういうことだと思います。

司会‥同じような立場である斎藤さんにとってアルコール依存症とは何だったのでしょう。

斎藤‥性格異常でしょうね。だって自分の場合は「酒乱」でしたから。だから、「また飲んできたの」という一言で腹を立てて、「なんだ」と言って物を投げたりしていたのですから、完全に性格異常だったと思います。それでも、まわりから見たら、やはりおかしい、と感じますよね。
今現在、私に関しては誰も何も言いません。だから、こちらからいろいろ聞いているんです、あの頃どうだったと。例えば、電気炊飯器ありますね。私はあれをよく怒りに任せて放り投げていました。私は二階にいましたから、当然下の階の人はわかっているわけですよ。当時は何も言われなかったけれど、今になってポツポツと聞いてみると、やっぱり性格異常だと思われていたのでしょうね。何も壊さなくてもよかったのですが、何台もブン投げていましたからね。

司会‥飲んだら、そうなってしまうんですか。

斎藤‥そうなんですよ。

司会‥そうすると飲まないときは全然違いますか。

斎藤∵全然違いますよ。演歌の歌詞にも出てきますが、「酒飲まなきやいい人なのに」、まさに私はその通りだったんですよね。子どもたちもなついていたはずなのに、酒で一斉に離れていきました。最近になって子どもに言われたことがあります、「とうちやん、罰だったんだな」と。まいりましたね。酒乱の人は自分一人の力では、何事もなかなかうまくいきません。
今のアルコール依存症の入ってのは私から見るとかわいいですよ。ちびちびしか飲まないでしょ。例えば一杯の酒だって、ちびちび。私の場合は酒が体に悪いことわかってて、「なんだそんな飲み方は」と言いながら、「カーッ」と飲むわけだから、まわりから見たら完全な性格異常に見えるわけですよ。だから友達もパッと離れていきました。
私はもう、定年を迎えましたけれど、最近では、近所の人たちに「具合悪いから病院につれてってくれ」と、頼りにされているのです、車もってるから。ずーっと飲んでいたら、そういうふうに年寄りから信頼されなかったでしょうね。「ちょっと転んで、足がおかしいから病院まで送ってくれない」「ああ、いいよ」などと言いながらやってます。

司会‥そうすると飲んでるときでも、飲んではいけないっていうのはわかっているわけでしよ。

斎藤‥わかりながら飲むんです。明日は飲まないって言いながら飲むんです。

司会‥普通の人の感覚で言うと、そこのところで自分で飲むのをやめればいいだろうと思いますよね。

斎藤‥だから二人いるんですよ、自分が。飲みたい自分と飲みたくない自分と。普通の人は飲んでいても、どこかで飲まない自分が勝てるわけですよ。ところが私の場合は、飲みたい自分がいて「飲め、飲め、飲め」と言い続けていたんです。それを感じて自分一人で「にやっ」とすることがあるんですよ。おかしかったんだな、あのときは。なにもモノを投げることないのに、せがれのビデオを壊すことないのに、あのカメラ、ぐにやぐにやにならなくてよかったのに、とかふと思うときがあります。完全に酒で性格が変わっていた。今になってそんなバカなことやらなければよかったと思います、本当ですよ。

司会‥石田さんは、飲むと変わってしまうとか、飲まなければいいとわかっていても飲んでしまうことはあったんですか。

石田‥別れた家内から、「あなたは、お酒飲まなきやいい人なのにね」と言われたことは何度かあります。でもやめなきやと思ったことなかったんですよ。飲んでるときは酒が私にとっての神様でしたから。酒さえあれば何でもできる、酒さえあれば、というのが正直な気持ちでした。ただ先ほどの高血圧の話ではないですけれども、多少は控えようかなというようなことはうっすら頭によぎったことはあります。しかし、それは無理でしたね、どうしても。一杯飲んでしまえば、その日の酒量がどのくらいかというと、ブラックアウトする(意識を失う)までですよ。だから眠りにつくというのではなくて、毎日意識を失っていたというほうが近いです。寝る直前に何があったのか、ほとんど何も覚えていない日のほうが多かった。どうしても酒量がそこまでいってしまう。しかも、どんどん身体がアルコールに強くなっていきますから、どんどん酒量も増えていきました。

家族にとってのアルコール依存症

司会‥藤田さんはその辺はご家族の立場としていろいろとご経験があると思いますけど、アルコール依存症とは家族にとって、何だったのでしようか。

藤田‥父が小さいときになくなったものですから、私は本当にアルコールを知らないで育ってきました。一緒になったときに夫はすでに飲んでおりましたから、「飲む人はこういうものだ」くらいしか本当にわからなかったんですね。今になって思えばいろいろ問題がありましたけれど、私が我慢して、その日が無事に終われば取りあえずいいんだと、そういうような気持ちでいたんです。我慢するのがあたり前でした。
ところが、だんだん月日が経つにしたがって子どもも大きくなり、そろそろ小学校に入るときに、先ほどから性格異常の話がでていましたけど、お酒を飲むと夫から人間らしい感情がなくなっていくような感じがしたんです。当時私は、夫の両親とか兄弟と一緒に一つのところにいたものですから、その中でみんな所帯をもって飲んでいるんですけど、見ていると夫の飲み方は量が違うと、さすがに私でも気がついてきました。
その後仕事にいくのもだんだんつらくなってきたらしくて、四0代半ばになったある日、今日は会社に行かなくてはいけないという一番大事なときでも行くことができなかったのです。当時、まだ私は断酒会とは関わりがなかったものですから、もうそういう夫を見ると家族として我慢できなかったんですね。それでとにかく今日は勤めに行かないとダメだと、それこそ叱咤激励しておりました。それでもやはり行けませんでしたね。私も勤めていましたので、今日は夫は仕事に行っているだろうと思っても休んでいることが続くうちに、これはどうもおかしいと思い、そこでようやく断酒会を知ってつながったわけです。家族としてというより私が一番ショックだったのは、アル中という言葉でした。アルコール依存症のことをアル中(アルコール中毒)とその頃は言ってましたから、その言葉を聞いたときに、私は一番こたえました。お酒でいろんな問題があっても、自分の家庭がそういう家庭だと私自身が認められなかったんです。そういう人と一緒になったということが、私の中で許せない部分としてありました。アル中も病気だということを教えていただいたときにも世間でいっぱい飲んでいる人がいるのにどうしてうちは病気なんだろう。この病気について、私は今でもわかっているのかどうかわかりませんけど、これを自分の中で納得するまで本当に時間がかかったんです。
夫は、夫の家族の身内がいっぱいいるものですからどうしても甘えがあります。その中で、私の方が先に断酒会につながったので、生半可なことではお酒はやめられませんでした。私が会に出れば出るほど夫はいやがらせをしますし、それに夫が仕事に行けなくなったときに、うつ症状がでてきたんですね。だから本人は「アルコールの問題より、うつを治さなくてはいけないんだ」と言って私のいうことをきかなくなりました。あるとき病院の先生が、「アルコールをまずやめてみないと、うつは治らない」と夫に話しました。そしてその一言が、アルコールをやめる一つのキッカケになったのです。それから一週間夫はお酒をやめたんですが、一週間後の表情が以前とは全く変わったんですね。お酒を飲み続けていたときは、目もうつろでしたし、この人はどうなってしまうんだろうというのが家族にとって非常に不安でしたけど、一週間後の夫を見たときに初めてわたしは、これはお酒がやっぱり原因だったんだと、家族として納得がいったんです。お酒をやめなければ治らないとわかったときに、私は一所懸命断酒会に通い始めました。ですが本人は先ほど言ったように、うつぱっかり気になっているものですから、お酒をやめようという気になりません。夫の両親も、なんであんなに好きなお酒を嫁の私がやめさせなくてはいけないのかというところが理解できなかったみたいです。私が断酒会に出かけるとその間に母親がビールを飲ませたりもしてました。もうそのときは家族としてはつらかったですね、なぜわからないんだろうと。要するに私は自分のことしか考えてなかったんですね。悪いのは央、夫を育てた親、その周囲がみんな悪い。自分を振り返ってみることが私には全くできなかったのです。それでも断酒会と白菊婦人会のおかげで、家族の私も夫を責め、自分だけを正当化している自分に少しずつ気づき始めて、今でも会につながっています。

断酒を決意するまでの軌跡

司会‥世良さんはずっと医療側から関わってこられましたが、アルコール依存症の特徴、つまりここがアルコール依存症なんだというところはどのあたりになるとお考えでしょうか。

世良‥一言で言うと、飲み出したら止まらなくなることです。特に最近は身体の病気だという思いを強くしています。よく患者さんに言うのですが、アルコール依存症はアレルギー反応だと。身体がアルコールに反応するわけだから、もう何を言ってもアルコールが身体に入れば反応を起こすのですから、どうすることもできません。確かに、アルコールに反応する身体を自分で作りあげたところには問題があるんだと思いますが。
アルコール依存症は、酒が止まらない身体の病です。それを回復させるためにはどうするかとなったときには、決して一杯の酒に手をつけないということに向かってゆくんだろう思います。いくら断酒を続けていても一杯に手をつけてしまうだけで以前と同じようにアルコールが止まらなくなり、アルコールに溺れた生活に逆もどりします。一杯に手をつけないためには、精神的、社会的な問題が大きく影響してきます。

司会‥なるほど、止まらない病ですか。そこのところは他の方にも聞きたいところですけど、止まらない病が実際止まるわけです。回復に向かうのはお酒を飲まなくなるからです。そのキッカケとはなんだったのでしょうか。斎藤さんはいかがでしたか。

斎藤‥自分は会社を休みませんでしたが、二日つづけてツートーンカラーの車に乗ったことがあります。救急車なんですけど。最初に救急車に乗って病院に運ぱれたときも、それでも半日ぐらいで点滴を抜いて次の日会社に行ったんです。その病院には、「命になにかあっても当院には関係ありません」と一筆書かされました。そこまでしながら、帰りにまた飲んだんです。また倒れて、救急車で運ぱれたとき、そのときに家内が、「お父さん潮時だね」と言ったんですよね。何年か前になりますが、断酒会ではこんな活動をしていますとテレビで放映されたことがあり、「お酒をやめたい方はどうぞ」というテロップを見て、それで家内が連絡を入れたわけです。
もうあのときは完全に家内に、これ以上は迷惑かけられないなと思いました。これがやめるキッカケの一つ目です。
二つ目は、入院していたときのことです。長男は恥ずかしくて見舞いにいけないっていうのに、下の子は来たんです。「お父さん大学行きたい、高校行きたい」と言いに。「どこに入りたいんだ」ってきいたら、県内でも有名な高校でした。これは大変だ、入学金も馬鹿にならないし、相当覚悟しなくてはいけない、と考えました。私はその子のすぐ上の子を亡くしているので、とくにかわいがっていました。だから、あの子が高校に入って「大学に行きたい」と言ったときに、親として「藍は青より出でて藍よりもなお青し」という中国の諺が頭に浮かんだのです。私は高校を出てますが、子どもを自分より光らせるためには、高校と大学とやらなくてはいけない。人に任せるわけにはいきません。私はせがれのためにも酒をやめなけれぱと、本当に悩んで、そのときもお酒を飲みながら考えました。(笑い)
それでも決心して、その日ある病院で聞かれていた「断酒のつどい」に行って、私はせがれの話をしたんです。そこにいた十何人の先輩に「がんぱれ」と言われました。今から思うと、家内の一言とせがれに「高校に行きたい」と言われたときに、私は断酒するんだと決意しました。そのとき、勤めはじめてから32年になっていたんですが、退職してお金を借りてでもせがれを高校へ入れてやろうという気持ちになりましたね。最初はやはり結構つらかったのですが、最終的には自分がその大変さに慣れました。本当に家内やせがれが頼りにしてくれているんだなと思ったときにね、救われたような気がしました。
下の子どもとは今では親子というよりも兄弟みたいな付き合いになってきましたよ。心を許しあっているという実感があります。そのせがれがボーナスもらってきたとき、私と家内にそれぞれ今までの感謝の気持ちとして謝金を包んでよこしました。そのとき、「おやじこれね、車の燃料代にしなさい」。そして一言、「酒にはつかうなよ」と。六月で定年になっていたからなのかもしれませんが、せがれの優しさにじーんときました。本当に今でも感謝しています。酒をやめてよかった。せがれが出ていったときにドアを閉めたら泣けてきました。「本当によかったな、これからもがんぱるよ」と、家内に言いました。本当に感激しましたよ。酒を飲んで失っていたものを、少しずつ取り戻しているという感じです。家内にも同じようなことを言われましたね。感謝できる会に入ったなと思います。

司会‥石田さんは酒をやめて回復していくきっかけというのは。

石田‥AAに出会えたことですね。それ以前は先ほど話しましたけど、三ケ月半連続飲酒が止まらなくなって、生きることも死ぬこともできない。実際首つり用のロープを買ってきて、首までいれましたよ。でもダメでした。それで精神病院にかけこんだのです。病院に入る直前までは、もう酒はやだ、泣きながら助けてくれと叫んでいたのに、病院で注射打ってもらって楽になるとまだ飲めるんじやないかという気になってくるんです。精神病院でAAに出会ったときも、行く気はありませんでした。だけど他に行くところがなかったんですよ、退院してから。友達は入院中から早く出てこいよ、退院祝いやろうぜと言いながら待っているし、かといって家にいても酒のイメージがあるのでいやだった。本当に行くところがなかったんですよ。
たまたま自宅から車で一五分くらいの距離にAAミーティング場がありました。暇つぶしで行ってみようかというのが、AAとのつながりのキッカケだったんです。最初はそのぐらいの意識でしたから、酒をやめようなんて気はさらさらなかったのですが、連続飲酒をしていたので当時会社はくぴになり失業保険で食べていましたから、暇だけは十分ありました。それからしぱらくして、ホームグループのミーティング場に通いだしました。「自分に正直に、自分に正直に」とAAでは言うのですが、最初の何ケ月かはどうしても正直になれないんですよ。見栄を張る、強がりを言う。それでも自分と違って、仲間は正直に話しているというのがわかるんです。大の大人が泣きながら自分の身の上を話してくれるということは、私に通じるものがあったんです。「おれもそうなんだよ」と、ここまで出かかっているんだけれども、見栄を張ってしまって、「酒やめたらね、飯はうまいし、調子が良くて」なんてことしか言えない。本当は違ったんですよ。行くところがなくて、さみしくてさみしくてしょうがなかったというのが本音だったんです。あるときに、ちょっとしたきっかけで、しやべるつもりはなかったんだけど、ポロンと話すことができた。話し始めたら、どんどん話せる。知らず知らずのうちに涙がポロポロこぽれてきたんです。そのときにあの場でなかったら、みっともないとか思ったかもしれませんよね。「四十過ぎになる男が」という思いがありましたから。だけどそのときは本当に違ったんですよね。自分の中で何かが一つ崩れました。
昔の価値観みたいなもの、見栄だったのかもしれません。そしてそのことによって、私は癒されました。それからですよ、やっぱり仲間なんだなという意識が芽生えてきて、自分も正直に話せる場所があるんだと思えたのは。私はそこに辿りつくまでに二年三ケ月かかりました。
回復に至る出来事、アルコールに対して無力であったということをまがりなりにも自分が実感したということ、そしてミーティングに出続ける中で仲間の話の中で「俺もそうなんだよ」というような一体感・共感というのが得られた。それによって自分が自分のことを正直に話せるようになったということでしょうか。

悲しみの中で家族が投げ返した言葉

司会‥藤田さん、先ほど斎藤さんが奥さんに言われた一言が非常にきいて、それが回復のキッカケになったというお話がありましたが、その辺は、当事者のご家族としてどうでしょうか。

藤田‥うちの場合、私一人で約二年ちょっとの間ですが、断酒会に出ていたんです。夫はその間飲んでいるわけです。ですから夫にしたら、私は敵なわけですよね、「俺は酒をやめるつもりないのに、やめさせるために会に行っている」ということで。私はなんでやめないんだろうと強く思っていたわけですから、当然敵同士になってしまいます。私がお酒をやめたほうがいいと言えば言うほど、お酒を飲みますからね。
それでそのときに私が最後に言った言葉は、「お酒を飲もうとやめようとあなた自分で決めて下さい。私はやめさせる力も全くないので、飲むんだったら飲んでもいいですよ。そのかわり私はアルコールでいろいろな思いをしているので、断酒会に行って勉強をしていきたいから、私は会に行きます」ということを初めて伝えて、食事だけは作ったんです。食べようと食べまいと、全く私はもう関係ないと自分で割切るように努めていました。
今でもどうしても忘れられないのは、私が断酒会から帰ってくると夫が玄関を閉めてしまうことです。「俺の一番いやな会におまえが行くからだ」と言って、入れさせないんです。それを子どもは見ているわけです。子どもは寒いだろうと思って、上に着るものをもってきてくれるんですが、またかぎを閉めてしまうんですよね。そのうち夫は、飲んでいるものですから寝てしまうんですが、ようやくそれから私が家に入れるというような状態でした。寒くなると、どうしてもそのときのことがよみがえってきて、今でもそういう家庭はあると思うんですけど、お酒をやめるということがどれだけ大変かという、どうしてもそこにきてしまうんですね。寒いときに家に入れない本当のみじめさとかつらさとかは、これはその立場の家族にならないと、あるいは体験したものでないと、言葉では表現できません。「なんでこんな思いまでして私は夫の飲酒をやめさせようとしているのだろう」ということばかり気になって、わが子のつらさも私にはわからなかったのです。
うちの場合両親もいたし、夫の兄弟もみんないたものですから、央は強いんです。「俺の酒を家内が飲ませないから、俺はこんなに飲むんだ」という一つの口実ができるわけです。そして、ことごとく私を悪者にしてしまうのです。ところが夫は飲まないといられなかったというのがわかってきて、私は「あなたが望むのであれば、お酒を飲んでもいいですよ。生きたかったらやめればいい。あなたが決めて下さい」と話しました。
私の今までなかった姿を見て本人が決断したんだろうと思います。それが一つのキッカケになったと思うんですね。それからずっと10年間ぐらい、仕事のこともありましたから、夫はお酒をやめていました。
一滴も飲まないで。それでも定年になる頃、ふっと帰ってきたときに、お酒の臭いがしたんです。私は10年間飲まなかったんだから、10年間一緒にいていろんな人の話を聞いていたわけですよね。だから、お酒の怖さがわかっているから、夫もよもや飲むことはないだろうと私は安易に思っていたんです。ただ、央の場合は飲みだしたらずっと飲むという飲み方ではないんですよね。「これだけしか飲まないよ」と言って、実際それで何日聞か飲みません。それに一合か二合程度ですが、自分で決めた量を飲むという、そういう感じだったんです。そのとき、よくみんな再飲酒すると、続けてずっといくと言うけど、夫は違うんではないかという迷いが心の中に出てくるんですね。夫がアルコール依存症であることを認めたくないという気持ちも、心の中のどこかにあったんでしょうか。だけど、それはやはり夫の心がアルコールにとらわれているということなんです。それは量の問題ではありません。とらわれている状態というのは、ここ10年間飲まないときの状態とは違うんですね。「今度いつ飲もう」とお酒に気持ちがいっている。その姿を見たときに、いつかはまた以前のあの状態が来るかもしれないという不安を感じました。それで話し合いをしました。「あなたがお酒を飲みたいのであれば、それは私が止めることはできないけれど、もしこの後の何年間かの人生を私と一緒に過ごしていくことをあなたが望むのであれば、私にはアルコールのある生活はできません。そういうあなたを受け入れることは私はできません。私はアルコールでいろいろな傷を負ってしまっているし、量の問題ではないんです」ということを飲んでいないときに話しました。そういうことを何回かしながら、夫も年齢を重ね、だんだん後先も見えてきたときに自分で結論を出したのだと思います。「二人で一緒にやっていくのが一番自分にとっていいのだろう」と、お酒のない生活を決断したんだと思います。
私が今思うのは、子どもの問題なんです。子どもの気持ちを考えると、アルコールの問題に巻き込まれているときというのは、子どもの問題まで考えがいかないんですね。自分のことで精一杯というか。夫がお酒をやめて、ある程度自分の姿が見えたときに、「子どもがどんなに傷ついていたのだろう」というところまで思いをはせたときに、やはりアルコールというのは恐いと思いました。アルコールの問題でなくても、他の問題でも子どもに傷を負わせることは確かにあるとは思います。だけど私にとってはアルコールによって、子どもがどんな気持ちになったのか、夜中に母親が家に入れないときにどんなにつらかったのだろうかと思いました。そして、子どもに謝ったのです。「今まで本当に何十年、自分のことしか考えられなくて、ごめん」と。私はこの言葉が心から出てきたんです。それで決して終わったということではないのですが、これからも償い続けていかなけれぱならないという気持ちでいるんです。

世良‥斎藤さんも暴れたんでしょ。たまたま、そのときの言葉が響いたんですよね。

斎藤‥そうですね。それに、友達が迎えに来なかったら病院へ行っていなかったかもしれません。それで、家内も心配したわけですから。

藤田‥では、たまたまタイミングがよかったのでしょうか。

斎藤‥そうですね。家内はずっと時期をみて言おうと思っていたんではないですかね。雪のときに私が暴れてせがれを外に出して、家内がその子を抱えて逃げまどうような、そんな思いをいくらでもさせています。だから藤田さんの話を聞いて、本当にぐさぐさきます。自分のことを言われているような気がしてね。今では自分でも信じられないような気もしますが、当時子どもたちは私に寄りつきませんでしたから。

回復の意味を改めて問う

司会‥それでは次に、回復について考えていきたいと思います。回復を考えるには、個人的なレベル、社会的なレベルなどで分けていく必要があると思いますが、現在まで振り返ってみて、どのように思われていますか。

藤田‥私が一番考えさせられたのは「回復」という言葉自体なんです。回復という言葉を使わないとこれから断酒会などにくる人には、目標がなくてつらいと思うのですが、わが身を振り返ってみると、夫は決して「回復している」わけではないんです。たまたま夫が飲酒をやめているので、私の気持ちも穏やかで人との関係もできているのですが、もし夫が再飲酒をした場合には、はたして今の状態でいられるかというと、私はそれはできないと思うんです。よく家族の側からすると、「私は回復しているんですけど、夫はなかなか回復しないんです」と言う人がいます。でも、私は自分の経験からして、現在の夫は「回復した」ということはないのではないか、それと同じで家族もこれで「回復した」と思ったらそれ以上前へ行けないんではないでしょうか。回復という言葉に自分で満足してしまっては、そこから先へ行くのは難しい。これからまだまだ、一歩ずつでも前へ行く自分を創るという気持ちが必要なのではないでしょうか。これはアルコールだけの問題ではないかもしれませんが、人間には、これで終わりということはないのではないかと思いました。

斎藤‥私が本当に変わったというのは、自分の側から酒のことを考えなくなったことです。これは本当に、家内に感謝しています。付き合いも今までは自分が酒を飲みたいから、相手にも酒の贈り物をしていましたけど、最近は酒は贈りませんね。それに相手からも、砂糖やコーヒー、醤油などが多くなり、酒はなくなりました。斎藤が酒を飲まなくなったからと、はちみつを贈ってくれた人もいます。会社でも私が飲まないのが有名になってしまって、送別会をする代わりに商品券をもらったんです。酒が好きな職場でしたから、以前はどこからとなく酒が出てきていたんですが。今まで贈られてきたお酒が別のものに変わった。酒に執着がなくなった。これが周りから見た回復ということなのかな、そしてそれが私にとっての回復であるのかなとしみじみ感じました。

石田‥回復というのは、自分のサイズの中で当たり前のことが当たり前にできるようになることだと思うんです。新しいメンバーが入ってきて、酒をやめて何が一番良かったかと言うと、顔を洗えるようになった、風呂に入れるようになった、歯を磨けるようになった、とよく言います。実際私も飲んでいるときは、風呂は10日に一回ぐらいでした。入ろうと決めて仕事から帰っても、いっぱい飲んでしまうと明日でいいやと。頭を洗わないので、三日、四日でくさくなる。だから整髪料でごまかす。そのうち頭がバリバリになってしまう。それで仕方がないので、時間を惜しんで風呂に入る。本当にそんな生活でした。ですから新しい仲間にとって風呂に入れるようになったことが回復なわけです。それでいいんです。もう少し経ってくると、もう少しレベルアップというか、仕事に復帰するまでのリハビリ期間としてAAミーティングに、一定期間、何ヶ月間か通います。それから、社会復帰に向けてパートだとかアルバイトだとか、ちょっとずつ、ちょっとずつできることを増やしていくということになってくるのではないでしょうか。
飲んでいるときには、仕事を月に一回とか二回休んでいました。今はそういうことはしません。よほどの用事があれば、仮病ではなくてあらかじめ前もって有給休暇をもらう。そういうことも回復の1つなのではないかと思います。
酒をやめるだけではたして本当に回復なのかということを考えたら、私はそうは思ってはいません。私たちが酒で隠していたものが、逆に酒をやめることによって出てきます。ただやめているだけではなくて、精神的自立ができてくる人というのは、家族のことにも気を使えるようになるし、仕事にも気を使えるようになるし、AAの中でもちやんとしたステージを踏めるようになってくると思います。
我々はいろんなことに依存したがる体質ですから、行政依存とかあるいは家族依存というものもあると思います。いわゆるAA馬鹿と私は呼んでいます。AAのことは熱心に良くやってくれるんですが、はたして家庭を顧みているのか、生活ができているのか。アメリカでは「AAウイドウ」という言葉もあるんですが、それがはたして回復なのかときかれれぱ、それは回復ではないと思います。やはりバランスというものがあって、社会人として、家庭人として、AA人として、そういうバランスが取れていく必要もあるかなと思います。
これは高望みかもしれませんが、そういうバランスも含めて、それぞれの人が自分のサイズの中で、普通のことを普通にできるようになっていくというのが回復ということなのだと思います。もちろん身体が不自由な人だとか、疾患をもっているのでなかなか社会復帰できない人というのはいらっしやいます。そ
れはその人その人のレベルでいいと思うんです。
顔を洗えるようになったことを喜んでいることも結構なんですよ、その人のレベルなのですから。つまり回復したというのではなくて、回復途上なのですから、だんだんとレベルアップしていけばいいのではないかなと思います。

治療する側から見た回復とアルコール医療の問題点

司会‥アルコール依存症からの回復のきっかけというか、これから良くなっていくだろうというポイントがあるのではないかと思うのですが。世良さんいかがですか。
世良‥ポイントというか、やはり人の話が聞けるようになるというのがあると思います。我々が何を訴えていても、最初は多くの人が拒否しています。そして違い探しをしています。何を話しても自分に当てはまらない部分を探して、「だけど俺は違う」と言ってくるんです。しかし治療や相談が進むうちに、「ああ自分も同じなんだな」というように同じ部分が見えてきます。それを我々医療側の人間は感じ、そのときに、「あっ、この人は回復に向かっているな」という実感がわいてきます。今日の座談会でも話が出て
いますが、すぐに否認がなくなるわけではないけれども、ゆっくりと我々の言葉が染み込んでいくような感じを受けます。それは、ある意味では否認が取れたと捉えることができるかもしれません。
私はよく言うのですけれども、とにかく「違い探し」をしている人はまだまだ時間がかかりますと。
「俺は違う、俺は違う」と言っている人には、「あと何ケ月か、いやたぶん何年かかかるので頑張ってくだ
さい」と。患者さんの言葉を否定しないで、ただ「頑張ってみてください」と返していくのです。
藤田さんの話を聞いていて、やっぱりそうなんだなと思うんですけれど、本人の問題として返していくということが基本ですね。一般的に病院では患者さんは「飲むな」と言われることを覚悟しています。ですから、来院して「そんなに飲みたいのであれば、飲まれたらどうですか」と言ったら、逆にギクッとするみたいです。ここ10年間くらいは酒は飲むなと言われるのが当たり前だったので、同じことを言われたら逆にまだ飲めるんです。飲むなと言われたら飲める。私も最初は、「飲むな、飲むなと言われるから飲んでしまう」という患者さんの言葉を聞いて、「ふざけるんじやないよ」と思ったこともありました。
でも今になると、「飲むな」と言われることは、自分はまだ見捨てられていないという証だから飲んでもいいんだという捉え方をする人が本当に多いと感じます。
回復について言えば、最近私は、命さえあれば回復できるという確信をもっています。ただ命をなくす人も多いわけですから、実は難しい問題なのです。短期間で回復する人もいますし、何十回と人退院を繰り返しても断酒できない人もいます。
いろんな回復の見方というものがあると思うんですが、「自分にとってアルコール依存症とは何か」については、私たち職員は患者さんではないから、どうしても患者さんとの関わりの中で想像していく、あるいは捉えていくことになります。「回復に到る出来事とは何か」についても、人それぞれ違うし、一概には言えません。
「人の話が聞けるようになった」「違い探しをしなくなった」「身体的な部分で弱くなった」いろんな形で気づきがあります。そういう気づきを我々医療者側はどう捉えていくか、未だに暗中模索でやっているというのが現実なのかもしれません。
「社会的な回復とは何か」というのは、理想的には、仕事をして社会復帰することかもしれませんが、皆できるのかというとできない人たちがいます。仕事ができない人たちは回復できないのかというと、そうではなくて仕事に復帰できなくても、飲まないで楽に生きられれぱ回復だろうと思います。そのあたりでも回復のイメージの違いみたいなものがあります。社会はとかく仕事をすることが必要だと言いますが、例えば定年後にアルコール依存症になった方もいっぱい出てきてます。
では飲まなければ回復なのか、断酒すればそれで回復なのかというと、どうもそうではありません。やはり飲まなくても、生きづらくない、楽に生きられる自分ができたときに、それが回復だろうと思うんです。だいたい生きづらいから、人間関係にひずみが起こるから、再飲酒するんです。人間関係に「もう耐えられない、これを我慢するぐらいなら飲んだほうがいい」といった感じで飲む方が結構いらっしやるのではないかと思います。そういう生き方の部分、生き方のまずさ、そういうものが飲酒につながっています。そういう観点からすれば、とにかく生きづらさみたいなのがとれてきた、そのときが回復なのかなと思います。AAも断酒会もそうですけど、自分のしらふでの成長を最終目標にしています。アルコール依存症者の多くの人は飲酒が自己の成長を妨げてきました。それを改善していかないと本当の生きづらさはなくならないだろうし、回復にはならないと思います。当然、家族の回復も考えなくてはなりません。家族の回復とはなんだろうと考えると、非常に難しいと思いますが、本人にとらわれないで家族は家族らしく、自分が自分らしく生きられるようになったときだと思うんです。おそらく依存症者が飲んできた長い間、アルコール依存症者にとらわれ続けた生活をしていたわけですから、酒にとらわれないで生きていけるようになったときが回復だと思います。回復には非常に難しい部分がありますが、私の体験からいくとこのように回復というものを捉えています。
特に医療側とすれば治療成果の上がりにくい病気だから、アルコール依存症は非常に難しいところがあると思います。しかしその一方で、アルコール問題に関わるとき、医療者の多くはアルコール依存症から回復した人たちのことをほとんど知りません。そういう回復を知らないで、アルコール依存症の患者さんの理不尽な言動に出会ってしまうと、なかなかアルコール依存症の言動を信じられなくなると思います。
しかし、回復者と実際に会っていく中で回復を信じることができるようになります。そしてそれが新しい患者さんとの関わりを生んでいきます。私自身、もし三年でアルコール医療から離れていたら、おそらく自分の入院当初に問わった患者さんの回復を見届ける前に離れることになり、アルコール依存症は回復などしないような病気であると考えてしまったと思います。二年〜三年断酒が継続すれば回復とみなすということがアルコール医療では決め事になっていますが、二年〜三年で勤務移動があると最初に関わった患者さんが回復したかしないかのときに勤務移動となります。そこまでしか見なければ、本当の回復者に出会うことがないことになります。治療するべきところが、本当にアルコール依存症は回復するという実感をもたないで、多くの人たちが関わっているのです。たまたま私は長くやっていることもあり、回復者が来てくれるので、私には次の力が湧いてくるというような循環になっています。せめてアルコール医療は少なくとも五年関わって、最初に関わった患者さんの回復を見ることができれば、今の患者さんもきっと回復できると信じて関わることができると思います。五年くらい勤務しないと自分の関わった回復者に出会わないのに、二年〜三年で勤務移動のある病院の体制はアルコール医療界の最大の問題だと思います。
もう一つ言えるのは、アルコール関連教育、つまりアディクション教育が学生の段階で医師、看護師、保健師を含む医療人に対してほとんどなされていないことです。

司会‥本日はアルコール依存症とは何なのかというところから始まって、その回復のイメージまで話し合っていただきました。アルコール依存症はわかりにくい、確かに難しい病気ではありますが、この座談会を通して「回復」は可能であるということが見えてきたのではないでしょうか。みなさん、本日はどうもありがとうございました。

 

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