ノックビン(ジスルフィラム錠) アルコール依存症治療薬

アルコール依存症治療薬レグテクトから抗酒剤ノックビン(ジスルフィラム錠)に変更。強制的に酒を飲めない体質にする訳だから、抑止力の差は歴然。

アルコール依存症の治療方法

      2016/12/10

アルコール依存症の治療方法

アルコール依存症の治療の問題点

アルコール依存症の治療がむずかしいといわれるのはなぜですか。
精神病には、アルコール依存症のようにからだの外からはいってくる化学物質によっておかしくなる外因精神病と、たぶんに素質などがかかわっている分裂病などの内因精神病とがあります。そのなかで、アルコール依存症ほど原因と治療法の明らかな病気はありません。なぜなら、アルコール依存症をひきおこしたお酒を本人が飲まないようにすれば、それだけでいっさいが解決するからです。
しかし、これぐらいかんたんでありながら、しかもむずかしい治療はない、ともいえます。なぜなら、コンビニでお酒はいつでも手にはいるからです。どんなに苦労して治療しても、アルコール依存症の患者さんがたとえ一滴でもお酒をまた口にすれば、それまでの断酒は水泡に帰し、ずるずると飲みつづけて精神病院に再入院することになってしまいます。
アルコール依存症では、いわば四六時中、一瞬も気の抜けぬ自分の欲望との戦いが一生つづきます。「禁煙」と貼り紙して、3日ももたずタバコを手にする人はたくさんいますが、これとおなじで、生涯にわたって禁酒をつづけられる人は少ないのです。
もっとも、禁断症状などの急性期の医学的治療は進歩しており、医師の管理のもとにじょうずにお酒を離脱できるようにはなっています。しかし、慢性期のアルコール依存症のアフターケアや精神療法、社会療法には、右にあげた例のような障害がまだたくさんあり、これがアルコール依存症の治療をむずかしくしています。

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急性期の治療

急性期(いわゆる禁断期)の治療は進歩したとのことですが、じっさいにはどのように行われますか。
病跡学という学問によれば、エドガー・アラン・ボーは、場末の酒場で禁断症状をおこして死亡したことがわかっています。また、禁断期にははげしい興奮がおこるので、かつては精神病院の保護室に収容しなければなりませんでした。
禁断症状の代表である「振戦せんもう」は重い症状をあらわし、古い精神科の教科書をみると、その死亡率は30%にも達すると書かれています。しかし、この恐ろしい禁断症状に、抗不安剤であるジアゼパムやニトラゼパムが特効的に効くことがわかってきてから、急性期の治療はかくだんに容易になりました。
わが国初のアルコール専門病棟である国立久里浜病院アルコール病棟には、以前はこの禁断症状のための保護室がいくつかつくられていました。しかし、当時ちょうど開発されたばかりのジアゼパムの注射を新入院の患者さん全員に行ったところ、禁断症状をおこす人は1人もいなくなって、保護室は入院中に飲酒した患者さんの反省室などに転用されることになりました。
またかつては、虫垂炎の手術で入院した患者さんなどが、きゅうに断酒することになった結果、手術後一〜2日めから禁断症状をおこして大騒ぎし、精神病院に転院することも多かったものです。最近では外科医のほうでも心得てきて、大酒家にはあらかじめジアゼパムやニトラゼパムをのんでもらっておくので、禁断症状はまったくおこらないか、万一おこっても軽くてすみ、外科病棟で十分管理できるようになりました。
禁断症状がおこった場合の治療は、入院当初の3〜4日間はジアゼパム(ホリゾン、セルシン)30mgを3回に分けてのんでもらい、また就寝前にはニトラゼパム20mgをのんでもらいます。体力の弱っている患者さんやお年寄りには、状態をみなが
ら2分の1〜3分の一の量に加減します。くすりをのめない場合は、点滴にセルシンの注射薬を混ぜます。これでせんもうの生じやすい離脱初期をうまくやりすごせたら、徐々にくすりを減らしながら禁断期とそれにつづく刺激期までくすりをつづけます。
禁断期の治療が安全になった原因は、この特効薬のほかに、点滴によって禁断期の脱水症状や電解質バランスのくずれを容易に調節できるようになったこともあげられます。

刺激期の治療

急性期を乗りきると、つぎはどうなるのですか。また飲みはじめてしまうとやめられる人とは、どこで分かれるのですか。
禁断期が1〜2週間で終わったあとの入院一ヵ月後まで、患者さんは不眠を訴え、いらいらして怒りっぽくなり、しまいにはくすりや注射、または外出を要求して落ちつきません。これを「刺激期」といい、病棟の看護者をこまらせます。
この刺激期は薬物依存症の患者さんの特徴で、からだがまだアルコールを要求している時期であることを意味しています。この時期に医師が根負けして患者さんに外出を許すと、100%外でまたお酒を飲んでしまいます。その結果、またふり出しの禁断療法からやりなおしたり、そのまま事故退院になってしまいます。
この時期には、精神安定剤を適当にのんでもらいながら、患者さんの要求を柳に風とうけながさなくてはなりません。医師は患者さんの体内を身体依存の嵐が通りすぎるまで、忍耐強く待つのです。
刺激期をすぎると、患者さんは人がわりしたかのように落ちついておとなしくなります。そこで、これまでの飲酒について反省させて、精神療法に導入したり、また、抗酒剤(ノックビンなど)をのむための動機づけを行ったり、退院後につながるアフターケアヘとつなげていきます。

入院治療と家庭治療の分岐点

入院して治療しなければならないケースと、家庭で治療できるケースとは、どこで判断するのですか。
ジアゼパムなど禁断症状を抑える特効薬があらわれたので、禁断症状をおこす可能性があっても、くすりをのみながら家庭で治療をつづけることも可能になりました。ただし、これは、専門医の指導があって、十分に目がとどくという条件つきであり、さらに本人の断酒の決意が固く、かつ体力もあり、四六時中看護する家族がいて、いざというときには近くの開業医の協力もえられるという条件も満たされなくてはなりません。
体力が弱っていたり、内臓の病気があったり、また誘惑にまけて飲む可能性のある人は、専門病院に入院して酒を断ったほうが無難です。アルコールが切れないように酒びんをかかえこんでいるような身体依存の段階は、やめようと思ってもからだがかってに酒を要求している状態なのですから。それに、元気そうにみえても、日時や場所の感覚がおかしかったり、意識がすこしくもっていて、また足がとられて歩けないような人は、この禁断期に急死することがあるのです。
とにかく、アルコール依存症の患者さんは、自分の体力の限界まで飲みつづけるので、禁断期にはなにがおこるか予測できません。つい誘惑にまけて酒びたりになって、原因不明の急死をとげた断酒全員の事例も決して少なくはないのです。
いまは共働きの女性も多く、四六時中看護してくれる家族はなかなかいません。また、まさかのときに往診してくれる開業医も少なくなってきました。ですから、家庭で禁断期を乗りきるのは条件同になかなかむずかしくなってきています。そうした条件のもとで、外来治療(家庭治療)できる場合について、o47でさらにくわしくとりあげておきます。

抗酒剤ノックビン(ジスルフィラム錠)の使いかた

抗酒剤をのみつづけていると、そのうちお酒がきらいになりますか。
抗酒剤(ノックビン・ジスルフィラム錠)をのむと、そのあとしばらくお酒を飲めない状態にはなります。したがって、物理的に酒を飲めなくする抗酒剤だけの治療では、とうぜんのことながら限界があります。酒をきらいにするくすりではないので、患者さんがくすりをやめればすぐに酒が飲めるからだにもどるからです。
アルコール依存症の患者さんは、はじめはきちんとシアナマイドをのんでいても、しばらくたつといろいろな理由をもうけて、このくすりをのまなくなります。酒飲みは、酒を飲めるからだにしておかないと、なんとなくさびしいのでしょう。そして、週一回の飲酒日を家族に認めさせ、やがてその週1日が2日になり3日になって、再入院になるケースがいかに多いことでしょうか。抗酒剤だけの治療で、5年後も酒をやめていた人は、わずかに6%にすぎないそうです。
抗酒剤のその惨たんたる成績は夢のくすりにたいする幻滅をうみ、アルコール依存症は精神科治療の対象にはならないという誤解が生じました。こうして昭和30年代後半になだ・いなだ(作家・精神科医)が国立久里浜病院アルコール病棟で新しい治療法を創設するまで、病棟のお荷物的存在のアルコール依存症と精神科医との不幸な対立関係がつづいていました。
考えてみると、アルコール依存症は、もともとこころの病気です。物理的に洒を飲めなくする抗酒剤はあくまで補助手段であって、患者さん本人がきっぱり酒をあきらめる決心をつけ、その動機づけを長つづきさせる心理療法が基本になります。抗酒剤の治療にこのような問題が生じたのはとうぜんの結果にすぎなかったのです。抗酒剤の具体的なもちいかたについては後ほど書きます。

アルコール依存症治療の入りロ(家族療法と集団療法)

じっさいには、アルコール依存症の治療はどのようにすすめられますか。
アルコール依存症の治療は、患者の奥さんがまずパニック状態になって米院し、危機介入のかたちで家族療法からはじまることが多いものです。そして、本人への治療の動機づけを、親戚や友人、上司、ケースワーカー、断酒会員と手をかえ品をかえて行い、外来で断酒できない場合には入院にまでもっていきます。この場合、非指示的な手法が通用するはずはなく、臨機応変で指示的な手法が必要となります。
無事、患者さんを入院させてからも、こじれきった家族関係の調整や修復、治療への家族ぐるみの協力体制の確立などを本人の退院までにすませておく必要があります。また本人については、飲酒に逃避し社会的不適応になっていた自分の問題点を入院中に十分に内省させ、整理させておかねばなりません。
つまりアルコール依存症の治療は家族ぐるみの治療であり、治療者は、場合によってはいろいろな精神療法のテクニックをつかい分ける柔軟な対応が必要とされます。このため、一定の治療パターンにはめこむ精神療法では限界があります。アメリカのハイマン教授によると、精神分析が有効なアルコール依存症はわずか6・7%にすぎず、それも社会的に高い階層の患者さんにかぎられるといいます。このように、分析医からもカウンセラーからも見放されたアメリカのアルコール依存症の患者さんが自らはじめたのがA・A(アルコホーリクス・アノニマズ)でした。
酒害者自助組織A・Aやわが国の「断酒会」については、社会的療法のところでくわしく説明しますが、精神科医がどうやらアルコール依存症の治療成績について前途に明るい見通しをもてるようになった原動力は、この、患者さんがかってにはじめた自助グループとのタイアップが可能になってからなのです。そもそもわが国におけるアルコール依存症の集団療法は、A・Aを参考にまず精神病院内のグループ療法として手さぐりではじめられた歴史をもっているのです。もちろん、アルコール依存症の精神療法は、はじめ個別に行う必要があります。しかし、断酒をつづけるための意志の強化、自己の性格傾向への内省、家族教育もふくめて、集団療法が個別療法よりもさらに効果的であることが経験的に明らかとなってきました。ハイマン教授によれば、アメリカの精神科医の77%がA・Aに治療を委託しており、わが国にあっても、断酒会は1979年から国の酒害相談事業にとりあげられるまでになりました。

「AA」と「断酒会」の歴史

「断酒会」および「A・A(匿名断酒会)」とは、酒害者と回復者とその家族だけの任意の団体で、定期的な仲間の集会(断酒例会、ミーティング)と新しい患者やその家族にたいする酒害相談などを自発的に行う自助グループです。先輩格のA・Aが匿名制をとり、家族グループは「アラノン」という別組織になっているのにたいして、A・Aを参考に組織されたわが国の断酒会は匿名制をとっておらず、家族といっしょに集会を開いているのがおもな相違点です。
精神科医や臨床心理士が行う個人精神療法や集団療法では、とかく患者さんの側に治療者にたいする依存心がおこってしまいがちです。そこで、この患者さんだけの自助グループのすぐれた治療効果が最近精神科医によって注目されています。

●A・Aの歴史
この自助団体の原点は、そもそも主治医にみはなされたアルコール依存症の患者さんがはじめたものです。そこで、その歴史をかんたんにふりかえってみましょう。
1935年にはじまり、現在世界最大の規模をほこるA・Aは、もっとも成功した自助団体のひとつです。A・A発展の年代表の最初の項は、シルクワースという医師がA・Aの創始者W・ビルに再起不能のアル中であると宣告したくだりからはじまっています。つまり、A・Aの歴史は、患者さんが医師に絶望し、これ以上はみずからの力で治すしかないと依存心を捨てたところからはじまっているのです。
とうぜん、その裏側には医師への不信が根深く横たわっており、そのため、アメリカのA・Aと医療側との良好な協調関係が成立したのはごく最近のことなのです。この点は、A・Aをモデルにまず精神科医によって育成されたわが国の断酒会と医療の関係と対照的といえるでしょう。
ところで、再起不能のアル中と宣告された株式仲買人W・ビルは、商用でアクロン市に出張したとき、もういちどお酒を飲みたいという衝動と不安にかられ、おなじアル中の外科医ボブを訪問して断酒について話し合いました。その結果ビルはお酒への欲求を断つことができました。そこで、ビルとボブの2人は、アクロンとニューョークとで仲間をふやしていき、4年後には通称ビッグ・ブック(「アルコホーリクス・アノニマス」)が初版されたのです。同書は、A・Aのバイブル的な存在で、初版は30万邦、第2版は一45万邦印刷されだベストセラーです。このように出版活動によって会員を獲得していくのもA・Aの方針であり、第3版が出版された1976年には、A・Aは90カ国にひろがり、現在では110カ国以上で120万人以上の会員をもつ世界的規模の大組織に発展しています。
わが国においても、アメリカでのA・Aの活動を知った北大精神科の諏訪元教授の指導で、昭和32年(1957)に関西の武庫川病院を中心にA・A方式のアルコール・グループの育成が試みられました。しかし、A・A方式を忠実にとりいれたアルコール・グループはなぜか発展せず、わが国独自の「断酒会」が昭和38年(1963)の全断連結成をきっかけに大発展して、さらに全国的組織となりました。そして、本家のA・A方式に忠実な日本A・Aの活動再開は、昭和50年(1975)にメリノール教会の牧師が関東ではじめた中間施設活動でリバイバルするまで待たねばなりませんでした。現在、日本A・Aは北海道から沖縄まで267のグループの全国組織に成長しています。

●断酒会の発展
わが国の酒害防止運動は、明治8年の禁酒会にはじまりますが、広報普及に重きをおく日本禁酒同盟の活動はながく低迷をつづけていました。昭和25年(1950)に山室武甫がA・A方式をとりいれた「断酒友の会」を発足させて酒害相談活動の実践にとりくみましたが、運動方針のちがいから昭和32年に
禁酒同盟との姉妹関係を解消し、これをきっかけにアルコール依存症の患者さんとその家族だけの団体である「東京断酒新生会」が分離・独立しました。
このころ高知市の精神科医、下司孝麿氏が病院内に断酒会をつくる目的で退院者をつのり、高知断酒新生会ができました。このなかに、全日本断酒連盟(全断連)の初代会長になった松村繁氏がいました。
この東京と高知で発展した2つの断酒会は昭和38年に団結して「全日本断酒連盟」を結成しますが、おりよく開設された国立療養所久里
浜病院のアルコール病棟を松村氏が訪問し、病棟医の堀内医師(なだ・いなだ)との協力関係が生まれました。松村氏は、久里浜病院の退院患者さんなど全国各地のアル中の患者さんを訪問し、断酒会組織づくりに熱意をもやしました。昭和40年代前半は、断酒会が全国的に発展し2万人の会員を擁する巨大組織になった時期ですが、その急成長のかげには、いまや伝説になっている松村氏の全国行脚があったのです。
わが国初の地域断酒会「高知断酒新生会」が下司病院の院内断酒会から発展したように、各地の断酒会にははじめからスポンサー的な精神科医や行政機関がありました。
川崎市精神衛生センターでは昭和47年(1972)から断酒会とタイアップしたアルコール外来を設け、会員に新ケースの相談を委託する酒害相談員制度を精神衛生センターではじめて採用しました。
こうした断酒全活動の成績に注目した厚生省が、昭和54年(1979)から酒害相談事業をスタートさせ、断画会の育成・指導を行う方針をうちだしてから、全国の断酒全活動はさらに充実することになりました。各県の精神保健センターは、いわば素人相談である酒害相談の技術研怖面を担当し、県衛生部が補助金交付によって断酒会の組織化を促進したからです。また、断酒会に退院患者さんのアフターケアを委託する精神病院が全国各地にふえてきて、精神科医と断酒会との良好な関係がつづくことになったのです。

入院によるアルコール依存症の治療

入院した患者さんにたいしては、どのような治療が行われるのですか。
アルコール依存症の治療はかなり以前から入院中心で行われてきたにもかかわらず、禁断期後の患者さんの精神面については、アルコール依存症=性格異常との考えからなんのはたらきかけも行われず、それが医師・患者関係の相互不信の不幸な歴史をつくってきました。アルコール依存症は精神療法が可能であり、治療できる精神科の病気であることが認識されたのは、1963年にわが国ではじめてのアルコール専門病棟として設立された国立療養所久里浜病院で、のちに久里浜方式とよばれて全国のアルコール病院のよきモデルとなった、なだ・いなだ(本名堀内)による斬新・画期的な入院方式が実施されてからです。
彼は、それまで鉄格子のついた精神病棟に分裂病の患者さんとごっちやに押しこめられていたアルコール依存症の患者さんをアルコール治療専門の開放病棟に収容し、かつ外来の問診で入院の動機づけがあるものだけを3ヵ月という期間をかぎって入院させたのです。この新方針は、十分な病気の自覚も入院の動機づけもないまま無期限に抑圧的環境にとじこめられていたアルコール依存症の患者さんの積年の憤憑を解消し、治療者との信頼関係がはじめて樹立されたのです。
この方式では、禁断期から刺激期をへて落ちつくまで約一ヵ月かかるので、その後、2ヵ月のリハビリ期間をとることができます。このリハビリ期間は、作業療法を中心とした生活訓練の期間です。そのスケジュールは患者さんの自治活動にまかされました。
アルコール病棟ではいったいどんな治療が行われているか、堀内医師が入院療法を実施した当時の病棟の日課表と週間予定表を示しておきましょう。
患者さんは朝6時に起こされ、夜9時の消灯までびっしりつまったスケジュールに追いまわされ、おまけに月一回、まさに「行軍」とよぷにふさわしいハードな遠足に参加させられます。
私はかつてこれらの生活療法を、堀内式軍隊式グループ療法と評したことがありますが、この東6病棟(久里浜病院アルコール依存症病棟の通称)のそれは、いろいろな意味においてまさに「軍隊体験」そのものでした。つまり、久里浜式グループ療法は、酒を飲んで自堕落な生活を送っていたアルコール依存症の患者さんに、早寝早起きの健全な生活リズムを思いおこさせるのになによりの方法だったのです。とくに、そのころの入院患者さんの多くが旧軍隊体験者であったこともあって、「行軍」ということばはまさにぴったりでした。彼らは幼年学校出身の若き日の堀内医師にひきいられて、軍歌を歌いながら鷹取山を往復し、軍隊時代を思いだして新生活への再起を誓ったのです。
この「行軍」はとくに人気のあった行事で、退院してからもこの日に特別参加する人が少なくありませんでした。彼らの多くは、いま各地の断酒全のり1ダーとなっています。その後、久里浜方式を見習ったアルコール専門病院がふえましたが、おもしろいことに、それらの病院でみな、この「行軍」という行事がそのままの名でとりいれられています。
入院治療や断酒全体験と軍隊体験とのもうひとつの共通性は、両者とも個人のそれまでの社会的経歴がまったく否定される、はだかの人間のつきあいである点です。軍隊では、大会社の社長もいったん兵営の門をくぐれば新兵として扱われ、いままであごでつかってきたような階層の古兵のいわれなきピンクをうけねばなりません。星一つのちがいが絶対であった旧軍隊と、断酒歴の長さがものをいう断酒会とは、この意味でよく似た社会構造をもっています。戦後50年になりますが、いまでも世の中に旧軍隊の「戦友」意識に勝る強烈な連帯感は存在しないでしょう。
久里浜病院の入院体験もこれとよく似た「同窓生意識」を生み、彼らは退院後もなにかと病棟を訪れ、ついに定期的に会をもつようになって、これは関東における久里浜病院系断酒会の母胎となりました。
おなじ酒害者の自助団体でも、アメリカ国民のドライなA・Aと、わが国のウエットな断酒会では雰囲気がまったく異なるのは、こうした会成立のいきさつも影響しているのでしょう。
このように、わが国はじめてのアルコール依存症センターで断酒会とのタイアップがはじまってから、アルコール依存症の治癒率がかくだんによくなってきました。国立療養所久里浜病院退院者の約3割が、7年後も断酒をまもっていますし、同様の治療を行う病院の予後調査もおなじような成績を示しています。

アルコール依存症の外来治療

多くの成人病で「早期発見・早期治療」の必要性がいわれますが、アルコール依存症をもっと早期に発見して外来で治すことはできないのですか。
先ほど紹介した成績は、入院を要するようなアルコール依存症の患者さんの治癒半ですが、もっと早期にアルコール依存症をみつけて治療をはじめれば、とうぜん治癒率もよくなるはずです。
私は、1970年に国立久里浜病院からアルコール依存症の多い川崎駅前の川崎市立精神衛生センターに赴任して、断画会の育成に力をいれてきました。
その断画会大全の席上で、抗画剤をだしてくれる医療機関が少なくて会員がこまっていることを聞かされました。そこで、1972年からアルコール外来をはじめることになりました。当時はアルコール依存症にたいする医師一般の理解がおくれていて、アルコール症の患者さんを敬遠する精神病院も多かったのです。
このアルコール外来には重症のアルコール依存症の患者さんもやってきました。しかし、すぐに入院させてくれる病院はなかなかみつかりません。そこで、やむなく禁断症状がでているケースでも外来でジアゼパムなどをだしつづけているうちに、その禁断症状がなくなり、無事に断酒会に入会させることができた症例も数多く経験できました。
以来、私はアルコール依存症の治療において、まず外来治療を原則としています。入院させるのは体力が消耗していて禁断症状により生命の危険が予想される人、断酒の動機づけが甘くて入院による教育が必要な人、および家族に看護する余力がない人などにしぽっています。このような方針をとると、従来なら入院のようなケースでも、約半数以上を外来だけで治療できるのです。重症例をふくむアルコール依存症患者のグループを外来で治療した結果、4年後にはその約30%が断酒に成功していることがわかりました。
ここで、当時のアルコール外来のようすを説明しておきましょう。
当時の川崎駅周辺は、泥酔して道路で寝こんでいるアルコール依存症の人も多く、「酔っぱらいの入店お断り」の看板が目立つ土地柄でした。私の勤務する精神衛生センターは、その駅から2〜3分のところにあったので、開設早々から大繁盛でした。
このセンターには小部屋がたくさんあったので、まずそのひとつを断酒会の事務所兼酒害相談室に提供しました。アルコール外来日には、そこに一日中断酒会の会長がつめて、相互にケースを紹介しあう方式にしました。そのうちに外来日には会長のほかに熱心なメンバーがいつもつめるようになり、患者さんもくすりをもらってもすぐには帰らず、その部屋によって歓談し、それからみなでそろって夜開かれる断酒会例会にでかけるというソーシャルクラブ的雰囲気が期せずしてできあがりました。このころ、アルコール外来から断酒会に紹介したケースの患者さんの定着率がよかったのは、このソーシャルクラブ的機能が、はじめはとっつきにくい断酒会例会への触媒としてはたらいたためと考えています。
最近、私は3年ぷりにアルコール外来を再開することになりましたが、現在の患者さんのなかにも、例会にはでないが、この談話室にだけは寄って話しこんでいくというケースがふえています。アルコール依存症の治療においてもっともたいせつなのは、そこでくすりをもらうとともに、仲間にも会えるというソーシャルクラブ的機能をとりこんだ街中のアルコール・センターの存在と思われます。
こんにちでは、当時にくらべてアルコール依存症の治療システムはかくだんに整備され、また関係者の理解もすすんできました。現在、全国各地の保健所は、その地域のアルコール専門病院や断酒会やA・Aの本部やその集会の情報をもっており、会とタイアップして相談にのっています。最近は酒害相談も普及してきました。そこで、早期に専門的な治療をうけるケースがふえて、思いあまった妻子が酔いつぷれた患者をしめ殺すような、かつての悲劇はみられなくなりました。
また、断酒会員のなかにも、精神病院の入院経験のある重症者は少なくなってきています。しかし、その反面、比較的らくに酒をやめた新入会員は、苦労が少ないぷんだけ、また気軽にお酒を飲みはじめる傾向もあるようです。
ともかく、酒飲みが好きな酒を一生のあいだやめつづけていくのは、たいへんな事業です。軽症のうちに、気軽に酒害相談に行かれることをおすすめします。

断酒会の具体的活動

依存症の患者の治療成功のカギをにぎるという断酒会の具体的な活動を教えてください。
断酒会は、酒害者とその家族の自助組織であり、ソーシャルクラブ的な組織です。
そのおもな活動は、定期的に開かれる「例会活動」と新入会者にたいする「酒害相談活動」とに要約することができます。

◇例会活動
精神科医がまず注目したのは、すでに触れたように酒害者同士が定期的に集金をもつ「治療型集団」としての役割でした。「同病相憐れむ」ということばではありませんが、アルコール依存症の酒害者だけが集会をもつと、いままで孤独で病と偏見とに苦しんでいたアルコール依存症の患者さんに、まず仲間にうけいれられたという共感と安心感とがえられ、いままで抑えつけられていた情緒が開放されて精神的に安定します。
精神的余裕ができると、新人の患者の言動にかつての自分の姿をみる「ミラー効果」や、飲まねばロにだせなかったうっぷんを集会で話すという「カタルシス効果」などによって、自分の問題点にたいする自己洞察が生まれて、人格的に向上していきます。すなわち、集会が自発的な集団療法の場になるのです。専門の治豪者をおかない酒害者だけの等質集団であるため、かえって腹をわって討論ができ、また治豪者への依存性が生じない利点もあります。
ここで、まだ断酒金の集会を見学したことのない方のために、集会のようすをざっと説明しておきましょう。
断酒金は発足当時は会員も少なかったので、全員の自宅で行われる家庭例会が多かったようです。金員数がふえて行政や医療関係者が援助するようになってからは、集会は保健所の講堂や公会堂などの公的機関を借りて行われるようになり、集まる人数も多いところでは50〜60人に近くなっています。
わが国の断酒会の形式はあとで説明するA・Aのそれとよく似ています。たとえば、会の進行は、
⑴ 司会者による開会の宣言
⑵ 祈念黙祷「断酒の誓い」
⑶ 「心の誓い」(起立斉唱)
⑷ 「家族の誓い」
⑸ 新入会員の紹介、会員の酒歴の告白、自由討論
⑹ 連鎖握手
となっています。
高知断酒新生会では、連鎖握手の前に「断酒の歌」を斉唱するなど、各地によって多少のバリエイションはありますが、全国各地の断酒会の集会の進行は、ほとんど右とおなじです。
「心の誓い」や「断酒の誓い」は、下司・山室両氏がA・Aの12ステップを参考にわが国向きにアレンジしたつぎのような文句です。
〈断酒の誓い〉
1 私共は酒の魔力に捉われ、自力ではどうにもならなかったことを認めます。
2 私共は過去の非を悔悟し、今までに損ったすべての人々に及ぶ限りの償いをしたく願います。
3 私共は同病相憐れみお互いに助け合って酒癖を克服しつつ雄々しく新しい人生を建設します。
4 私共は過去の朋輩やその他酒癖に悩む人々を救い出すために、できるだけの篤志奉仕につとめます。
5 私共は宗教政見の異同を問わない同志の、自主的な互助団体として断画会を守りぬきます。
〈黙祷〉(心の誓い)
1 私は断酒会に入会して酒を止めました。
2 これからどんなことがあっても酒でうさを晴らしたり、卑怯な真似はいたしません。
3 私は今後一切画を飲みません。
4 多くの同志が画を止めているのに、私が止められないはずはありません。
5 私も完全に画を止めることができます。
6 私は心の奥底から画を断つことを誓います。
こうした一連のセレモニーのあとに、会員間の自由な話し合いが行われるのが、断酒会やA・Aの集金です。「家族の誓い」については、次章の「アルコール依存症と家族・職場」のところで説明します。
⑹の連鎖握手とは、全員が最後にまるくなって手をつなぎあい、「もっと賢く」「もっと堅く」「もっと真剣に」「やろう」「やろう」と一句ずつ斉唱しながら、つないだ両手をふりあげて万歳の型をとり、全員の連帯感を強調する儀式です。はじめて出席した見学者が、まずとまどうもののひとつです。見学者は一様に、断酒会の一種独特の雰囲気を述べますし、ある医学誌の編集者は「部外者の私にとっては、何か宗教の儀式めいた、それで朗らかな、むしろ稚気にみちた集会という感じであった」と表現しました。これは平均的な感想というべきでしょう。筆者の研究協力者だった東野ワーカーは神学部からワーカーに転向した人ですが、断酒会の儀式がカソリックの儀式とよく似ていることに興味を示していました。
この集会の形式は、各地の事情に合わせて、最後の連鎖握手の代わりに「心の誓い」の斉唱をもってくるなど、時とともに簡略化している傾向があります。

酒害相談活動
断酒会のもうひとつの重要な活動は、酒害相談活動です。これは、集金に参加することで酒をやめられた幸福を、おなじ酒害で悩む新人の相談にのることで分かちあたえていこうというボランティア活動です。断酒金の先輩格であるA・Aもおなじ活動をやっていますが、いずれも宗教の布教活動とよく似た動機をもっています。しかしキリスト教圏に生まれたA・Aの集会に、さかんにゴッドやハイヤー・パワーなど濃い宗教色がでるのはあたりまえとしても、わが国の断酒金では宗教をもちこまないというとりきめがあります。
断酒会とA・Aという2つのアルコール・グループの優秀な治療効果は、彼らの集会が集団療法的な場としての治療型集団であるのと同時に、その実践の場である酒害相談で「行動型集団」としての2重のはたらきをもつからです。
断酒会は、ことばよりもまず「断酒道における実践」を重んじる集団です。たとえば、金に直接かあるいは保健所のケースワーカーを通しての新ケースの相談があれば、熱心な金員がたとえ夜間や休日でも患者さん宅を訪問して、緊急援助を行う場合があります。
アメリカのA・Aは、「命の電話」のように、82ックにおちいった患者さんがA・A支部に電話をすると、ただちに会員がかけつける24時間制の緊急サービスをモットーにしています。しかし、わが国の精神科の緊急医療システムはまだ未整備なので、アルコール依存症の患者さんにたいする緊急援助は断酒金も日本A・Aもまだ個人的段階で行われているにすぎません。断酒金は、このほかにもいろいろな活動プログラムをもっています。
ところで、断酒金のモットーである「実践」とは、断酒をまもるのはもちろんですが、金のさまざまな活動にきちんと参加することを意味しています。所属する断酒金が聞く集会には欠かさず出席し、酒害相談活動にも参加して新人への援助を行い、毎月のように企画される金の行事に積極的に参加することが強く求められます。
ときどき、新聞などで、断酒金が正月に一升ピンを割って断酒を誓う「酒なし新年金」の写真が報道されたりしますが、このほかにも、夏には家族連れの海水浴、秋にはぶどう狩りのバス旅行、そしてクリスマスパーティーや除夜の鐘をきく会などと、毎月行事を切らさぬように企画係が知恵をしぽっている断酒会が多いのです。
そうした幹部のひとりは私に、「われわれはこうして終始なにかやっていることで、かろうじて酒をやめていることができるのです」と述懐しました。彼の認めているとおり、活動型集団としての治療効果はきわめて大きいのでしょう。
毎週のように開かれる隼金が、治療型集団としてはたらいていることは、以上に述べたとおりです。そして、その集会に出席することそのものが、断酒会でなによりも重んじられる実践行動なのです。
川崎市を例にとると、7つの支部がダブらないように集会を開いているので、例会だけで月に7回も参加することができます。このほかに各自治体の酒害相談員研修にオープン参加したり、近県の断酒会の記念行事につきあったりしていると、毎晩のように断酒会に参加することになります。なかには、東京や横浜の例会に他流試合のように参加している人までいるのです。こうなると、余暇のすべてが断酒会の活動にささげられるだけでなく、本業までおろそかになる場合も少なくありません。こうした状態を、ある奥さんが『夫はアル中から断酒会中毒にかわっただけです」と形容したこともありましたが、ある期間、この熱中期を経験した者に断酒の成功率が高いことも事実なのです。
断酒会は活動型集団としての性格をもつので、集会や行事への参加がなかば強制されるなど、その集団の雰囲気は拘束的です。また命令的な全長や支部長が多く、参加者の地位関係は上下関係が強い軍隊的な一面をもっています。しかし、なかば拘束的に出席させられた集会は、おたがいを認めあい、平等で自由に発言でき、会員の友好を強化する場なのです。
つまり、活動型集団の実践として集会への出席を強要すればするほど、集金において治療型集団としてのはたらきがよくなり、会員間の緊張や不満もなくなって集団の統一がすすむという、よいめぐりあわせが生まれるのです。断酒会がこうした相補的な2重機能をもつ多機能集団であることが、その強力な治療効果の秘密ではないのでしょうか。

A・A(アメリカ式匿名断酒会)の具体的活動

A・A(アメリカ式匿名断酒会)の活動はどのように行われているのです。断酒会の活動とはどんな点がちがうのですか。
1970年代に一大躍進をとげた断酒会にかわって、1980年代からA・A方式に忠実なアルコール・グループが日本に復活して、同年代後半には北海道から沖縄までの全国組織に発展しました。このことはコラムでもかんたんに触れましたが、A・A活動をよく理解してもらうために日本でのA・A発展の歴史についてさらに述べて

◇日本のA・A
おもしろいことに、わが国では、一時断酒会に出入りしていた人がそのウエットな人間関係にあきたらず、ふたたび本家のA・Aのシステムにもどってアルコール・グループを組織していきました。彼らが日本のA・Aのり1ダーとなっています。
わが国のA・A発展のり1ダーであったメリノール教会の牧師ミーニー氏も酒害者、すなわちアルコール依存症の人で、はじめは断酒会員をまじえたアルコール・グループを主宰していました。このなかで全員に定着したメンバーの半数以上は単身者でした。妻帯者の多い断酒会では異質の存在です。
ミーニー氏は1975年にアルコール依存症の単身者のための中間施設「大宮ハウス」を開設し、そこで、入所者21人中の9人がアル
コール症から回復するという実績を上げて福祉事務所のワーカーの信用をえました。
この時代は、大宮、川越、浦和、立川の教会を借りて集会が開かれ、また横須賀や座間、横田基地などの在日米人のA・Aグループと交流していた時代です。やがて、同会のブレーンとなったピート神父も加わって、日本人だけのA・Aグループが開かれるようになっていきます。
A・A日本支部がこのころ急伸するバネとなった、2つの要因があります。
ひとつは、ミーニー氏が、その方針をこれまでの中間施設「大宮ハウス」からデイ・ケアセンターに切りかえたことです。利用者のかぎられる中間施設よりも通所施設のほうが、けたちがいに多くのアルコール依存症の人が利用できるからです。
1983年に彼は、メリノール教会の資金によって山谷にほど近い三ノ輪の民家を借りて、メリノール・アルコール・センター(MAC)を設立しました。そこでミーニー氏は、有名な山谷のドヤ街の単身アルコール依存症者の処遇に悩まされていた福祉事務所や保健所、施設などから患者さんの委託を積極的にうけました。そして、彼らにマック・アルコール・アシスタント・プログラム(MAAP)とよぷリハビリテーション教育を行うことで、不動の実績をつくったのです。当時はMACにA・Aの事務所がおかれていましたが、その統計によると、1980年の一年間にMACを訪れた酒害者は一万378人にも達しています。
このように、初期A・A活動が急伸した要因のひとつは、関東における断酒全活動の谷間にあった単身アルコール依存症患者の治療に、積極的にはたらきかけたことにあります。その結果、それまで、更生率の低い単身アルコール依存症患者の処遇に悩まされていた久里浜病院や、神奈川県立精神医療センター・せりがや病院も、入院中からA・Aのプログラムを利用するようになりました。おなじく単身アルコール依存症患者が多い横浜市中区福祉事務所もケースを積極的に委託したので、横浜のA・Aグループが急伸しています。また、簡易宿泊所の多い中村区をもつ名古屋市でも、福祉部門との協力で1986年よりマックハウスが開設されました。

A・Aのミーティングの特徴

ここでA・Aのミーティングと断酒会例会のちがいについて、かんたんに説明しておきましょう。 断酒会例会はもともとA・Aをモデルに発足したので、集会の形式はとうぜんよく似ています。しかし、わが国の断酒会が見学者も参加できるオープンな形式なのにたいして、A・Aは酒害者のみの閉ざされた形式が主体となっています。これが、まず大きな相違点です。
じっさいのA・Aの会の進行では、司会者がおもむろに開会を宣言すると、
⑴ まず短い黙想。
⑵ A・Aの目的と12ステップの朗読。
⑶ リーダーが「 l am John. l am an alcoholic」と宣言する。
⑷ これが終わるとスピーカーとよばれている予定発言者が自由に自分の酒歴などを発表するが、他の会員はこれを批判しないのが原則である。司会者がそれらの発言をまとめたところで、
⑸ リーダーが主の祈りをとなえて会は終了Tる。
この形式は、大都市における大集会やアラノン(A・Aの家族グループ)の集会においてもほぽ同様と考えてよいでしょう。ただ、大人数の隼金の場合には、十分に話せなかった人たちが、帰途小グループに別れてコーヒーを飲みながら夜が明けるまで語り会う光景がみられるそうです。こうした集会後のだんらんが、大集会のグループ効果をおぎなっているものと思われます。
わが国の「断酒の誓い」の翻案では5ヵ条に省略されていますが、ここでもともとのA・Aの12ステップを紹介しておきましょう。

〈A・Aの12ステップ〉
⑴ われわれはアルコールに対して無力であり、生きていくことがどうにもならなくなったことを認めた。
⑵ われわれは自分より偉大な力が、われわれを正気に戻してくれると信じるようになった。
⑶ われわれの意志と生命の方向を変え、自分で理解している神、ハイヤー・パワーの配慮の下に置く決心をした。
⑷ 探し求め、恐れることなく、生きて来たことの棚卸表を作った。
⑸ 神に対し、自分自身に対し、いま一人の人間に対し、自分の誤りの正確な本質を認めた。
⑹ これらの性格上の欠点をすべてとり除くことを、神にゆだねる心の準備が完全にできた。
⑺ 自分の短所を変えて下さい、と謙虚に神に求めた。
⑻ われわれが傷つけたすべての人の表を作り、そのすべての人たちに埋め合わせをする気持ちになった。
⑼ その人たち、または他の人びとを傷つけない限り、機会あるたびに直接埋め合わせをした。
(10) 自分の生き方の棚卸を実行し続け、誤ったときは直ちに認めた。
(11) 自分で理解している神との意識的触れ合いを深めるために、神の意志を知り、それだけを行っていく力を、祈りと黙想によって求めた。
(12) これらのステップを経た結果、霊的に目覚め、この話をアルコール中毒者に伝え、また自分のあらゆることに、この原理を実践するように努力した。
この12ステップの体得こそがA・Aによる回復の原点であり、これと、ボランティア団体としてのありかたを規定したこ一の聖伝とを200ページにまとめた「スモール・ブック」がピギナーズ・クラスの入門書としてつかわれています。
私がA・Aのミーティングに出席したときの感想と、この本の読後感とをあわせると、12ステップは、精神療法の過程としても、アルコール依存症の回復プログラムとしても、順序よく合理的にできているといえます。
まず、田から圓までのステップは、自分がアルコール依存症であることを認める治療の動機づけにはじまり、過去の自分の行為を病気の症状と理解することで、罪業感からいったん解放され、仲間にうけいれられて精神的に安定する段階です。A・Aの集会では個人の発言にたいして批判はなされないので、傷つきやすい段階の新人は会に親しみやすいでしょう。この点からみると、活発に批判しあう断酒会は指示的な集団療法の場であり、A・Aはいわば非指示的な集団療法に近いといえるでしょう。そのつぎに、過去の自分の欠点を徹底的に「棚おろし」する⑷、⑸のステップがあります。これは日本の内観法(精神療法のひとつで、内省によって治療をすすめる)に似ており、これを行う時期がむずかしいことを指摘する必要があります。⑷と⑸のステップは、教育分析に似た重要な節目のひとつですが、自己の欠点を内省することで罪業感が強まって、逆につぶれる危険性もはらんでいるからです。このために、日本支部ではカウンセラーに告白を間いてもらうなどのくふうを行っていると間きました。
⑹、⑺のステップは、この罪業感を「ハイヤー・パワー」(偉大な力)にゆだねることで軽くする効果があります。
⑻、⑼のステップは、過去に自分が傷つけた人にたいするつぐないの行為によって、
人間関係の回復を実践する時期です。
(10)は改善されつつある自己を毎日チェックし、最後の卯、?mは、自分の人格の回復、向上を可能とした。偉大な力″に感謝する段階です。これは慢心をいましめる効果があると思われます。
まとめると、ホットでウエットで指示的な断酒会にくらべて、A・Aはクールで非指示的といえるでしょうが、その背景にあるのは、あくまでもキリスト教の合理主義と愛の精神ではないでしょうか。しかし、いかに合理的にプログラムされているとはいえ、ステップはみずから体得するものであって、それは精神療法の本質とまったくおなじです。
自己の問題点の洞察と回復とがその人の自由にまかされている断酒今では、せっかく例会に出席しても上すべりして深まらない人がでます。これにたいして、目標が明らかにされているA・A方式には、平均的に目標に到達しやすい利点があるようです。

出版によるA・Aの活動拡大

ところで、日本でのA・A躍進のもうひとつの要因は、本家アメリカとおなじように出版活動に力をいれたことでしょう。アメリカのA・Aがビッグ・ブックの出版で躍進したことはコラムでも述べましたが、ある地区にアルコール依存症の人が2人以上集まってビギナーズ・ブックなどを読みはじめたら、それで一つのグループができたことになるのです。また、この本は、段階別にアルコール依存症の理解を深めていくようにシステム化されているので、とっつきやすいのです。さらに、今が組織されてからゴタゴタがおこった場合には「12の伝統」を参照すればよいようになっています。なにしろ、国際的な多くのチェーン店を擁する国ですから、こうした面にもチェーン店のノウハウがきちんともちいられているのです。この点が、以心伝心の切磋琢磨を重んじる断酒会とは対象的です。
このA・Aのさかんな出版活動は、ピート神父以来わが国のA・Aにもうけつがれ、出版物は1981年ですでに27点もありました。1993年現在、各地区A・Aの催しをのせた定期刊行物「BOX916』や隔月のニューズ・レターのほかに、ビッグ・ブックなどの単行本19点にリーフレット14点、その他とまことに充実しています。
しかし、その後のA・Aグループの発展は、戦後世代がしだいにアルコール依存症の中心となった「時代の変化」に帰せられるでしょう。ミーニー氏は私に「あまり拘束的でないA・Aのほうが気楽なので、近ごろの若いアルコール依存症の患者さんにはこのまれるようだ」と述べていましたが、これは最近の新人の根性のなさをなげく断酒会の幹部のグチとも一致しています。1981年の日本A・A本部サービス・オフィス(JSO)創立以来、専任職員をしている山本幸枝さんによると、とくに地方都市で若い人や女性の新入会員が多いことにおどろかされるといいます。山本さんの調べでは、関東にかぎられていたA・Aが全国的な組織に躍進した時期は1986年からの2年間で、1988年には北海道から沖縄まで160グループのA・Aが活動していました。私の調査によると、1993年現在、全国のA・Aグループ総数は267です。教会のほか、公民館などの公共施設や医療機関、地区ボランティア宅から、はてはお寺の集会所もふくめて、計283ヵ所の会場で精力的にミーティングを行っています。
また、北海道、東北、関東、北陸、関西、4国、9州の7ブロックに地区セントラル・オフィスがおかれ、常任委員会で全国レベルのサービス調整がなされています。さらに、A・Aとくらべやや独自な活動を展開している全日本マック連合会(JCCA)でも、会議を開き、活動方針を調整しています。
このほかにA・Aと断酒会とのちがいは、A・AがアラノンやA・Cなどの独立した家族会をもっていることでしょうか。

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