ノックビン(ジスルフィラム錠) アルコール依存症治療薬

アルコール依存症治療薬レグテクトから抗酒剤ノックビン(ジスルフィラム錠)に変更。強制的に酒を飲めない体質にする訳だから、抑止力の差は歴然。

アルコールとは?

      2016/12/10

アルコールとは?

「喜びとは、飲むことよ」。冒頭からテレビのコマーシャルを引用する不謹慎さをお許し願いたい。アルコールに関する本といえば、2、3の例外を除けば、大部分が酒害を説くのが目的である。しかし、この記事を読む意志を示してくれているあなたに、最初からお説教を並べたてても始まらない。そこで、本当に「喜びとは、飲むことよ」といえるような清々しい話をまずお耳に入れよう。

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とき第10回日本アルコール医学会総会
演者日本学士院会員坂口謹一郎博士
日本アルコール医学会が第10回総会の記念講演に招待申し上げた博士は、醸造学の権威で、「日本の酒」「世界の酒」等の著書でも広く知られる文化勲章受章者である。齢すでに80を迎えられるのに、なお、声にも張りがあり、いまだ壮年の趣が見られた。当然のことながら、生来健康に恵まれ、病気とはまったく縁のない方とお見受けした。だが、「私は生来、虚弱で、青年期に至るまでは病気ばかりをしていました。とても長生きできないと医者にもいわれたほどでした。たまたま、少量の酒は健康によいですよとすすめる人があり、40過ぎから飲みはじめてから、うそのように元気になり、晩酌が何よりの健康法になりました。このように長生きできているのもお酒のおかげと思っています」というお話なのである。お酒造りの博士だから酒を礼賛されるのだろうなどと下賤な憶測はやめよう。れっきとした学会での講演である。けっしてメーカーの誇大宣伝ではない。私達は謙虚にこの事実を受け止めよう。
篠原文雄さんの「日本酒仙伝」にも先生のことは詳しく記されている。
酒によりて得がたきを得しいのちなれば
酒にささげむと思い切りぬとは、先生の詠まれた歌であるが、そのとおりに人生を生きておられる先生は立派である。
先生は、「酔っぱらいは大嫌いである。外で酔っぱらったり、友人にかぎらずいっしょに飲んで酔っぱらうということは、日本人の公衆道徳か、まだちょっと訓練されていないということに通じると思う」といわれたとのことだが、″先生が酒にお強いから″そんなことがいえるのだと個人の耐性のレベルの問題にすりかえないで、もう少し光生の御意見を拝聴しよう。
「日本人は一般に、酒を飲もうとするとき、はじめから酔うことを予想してかかる。それどころか飲む前から、もう一種の精神的な酔いにおちいるという感じがする。ところが、西洋人の考え方はまるで違う。あちらのいわゆる酒飲みというのは、アルコール分の強い蒸留酒やリキュールなどを常習とするもののことで、普通にはブドウ酒やビールはお茶や水と同じで、婦人や子供の飲みものにすぎないのである。
日本に酔っぱらいの多いのは、酔わなければ接侍者に相済まぬという感謝の念に発しているか、物が少なかった昔の習俗の名残りであろう。もう一つは、酒の飲みかたにもよるらしい。西洋では食べるのといっしょに飲むから、酔いにくいということである。また、日本酒のアルコール含量が高すぎるのではないか。このように、強いものを、食べ物にはあまりかまわず飲むものだから、どうしても酔っぱらうことになろう」(「日本酒仙伝」より引用)
まことに多くの教訓に満ちたお話である。
酒飲みもって肝に銘すべしという所であろ「酒は飲むべし、飲まるるべからず」という言い古された諺は、まことに当を得ている。酒飲みの友よ。 坂口大先輩の飲み方を範として、酒こそ。生命の泉といえるようにしようではないか。
今の中国では、孔子様は批判の対象にされ、批林批孔運動か盛んであるが、われわれの頭の中には、やはり孔子は偉人聖人として残っている。論語の中に孔子は日常生活を細々と述べているか、「酒無量、不及乱」と書いている。これは際限なく飲むというのではなく、その時々で定量はないが、おのれの状態によって飲み方を変えたという意味らしい。そして、乱に及んだことは一度もなかったというのである。孔子の教えは、まさに飲酒の模範であったのであり、中田大人の飲み方と坂口博士のそれはきわめて共通する所か多い。
げに「酒無量、不及乱」は飲酒者の鉄則であり、このように飲む人こそか、「酒仙」の名に値しよう。

歴史上の酒の物語

「酒の歴史」については、多くのすぐれた著書かある。酒の造り方や酒の種類を述べることは私の役目ではない。哀歓の人の歴史に酒がどう関与してきたかを見ていきたい。
人類の生活の中に酒が現われたのは、有史以前とされている。本の実が落ちて、それか落葉の下にうずもれ、空気としや断された状態で発酵が進み、酒ができたのを動物が飲み、動物に教えられて人間が飲みはじめたのが始まりであったとも伝えられる。だが、実は穀物や果実を貯えているうちに自然に発酵をおこしたのを飲んで、酒のうまさを知ったというのが本当であろう。日本の古代史の中では、酒は「お神酒」の言葉にも表現されているように、神に捧げる供物であ
り、自ら陶酔境に入ることによって幸福感を味わう神への接近の道具でもあった。
お神酒あがらぬ神はない

古代人は天地自然の脅威、その超人的な力に神を意識したが、とくに荒神を鎖めろために酒を供えることが、お神酒の始まりとなったと予測される。日本最古の記録とされている「古事記」の上巻に「ハ俣遠呂智」の段があることはよく知られている。天石屋戸の事件で、高天原を追われた須佐之男命が出雲国の肥の河の上の鳥髪の地に降りたが、身一つにハ頭ハ尾有る大蛇が年ごとに来て里の女を喰う話をきき、「八塩折之酒」を8つの酒前に盛って大蛇に飲ませ、酔って寝てしまった所を退治したという物語である。
この物語の中に、荒神鎮めに酒が用いられるに至った経緯か語られているので、酒は信仰と結びついて生活の中で、欠かせぬものとなった。それが転じて神ならぬ人の心を和らげ、心と心を結ふ仲だちの役を酒が受持つに至ったともいわれる。
酒のことはタシといわれている。そして、このタスシキ酒は、日本の国土経営に、大己肖の神、つまり大国主神と協力した少彦名の神が、祝福の祭りにさいしもたらしたものだとの信仰があったことがこれでわかる(和歌森太郎著「酒が語る日本史」より)とあるように酒はまつり酒となり、神と人が酒をくみかわし仲よくすることに始まり、祭りに加わる人びとが互いに睦び合い、親しみ合うことで、連帯意識を醸す仲立ちとしたものと思われる。古代にあっては、相互親睦をはかるときに酒は欠くことのできないものであった。それは、今も同じで、近代社会にも受け継がれている。
酒の堕落
ギリシア・ローマ神話にでてくるディオニュソス(バッカスともいう)は、酒の神として、陶酔の力を示現するのみでなく、酒の社交的、慈善的勢力をも示し、文明の啓発者、立法者、平和の愛護者ともされていることは、酒のもつ社交性、平和性を端的に示している。
ギリシア神話の神々の居住地であるオリンポス山の山頂では、神の神なるゼウス(ジュピター)の宮殿に集まる神々は、毎日、アンブロシア(神食)とネタタル(神酒)で喪宴をもよおし、天と地のあらゆる事件を語りあったということであるが、可憐な女神へ。への手から酌を受けた神々の喜びが、音楽の神アポロンの竪琴の音に合わして、浪漫的な夢幻の世界を現出していたと想像される。ネタタルがなければ、神の国もかくも平和ではなかったのではなかろうか。
古代史の中では、酔漢はほとんど現われてこない。ヨーロでハの文学の中でも、酔っぱらいが登場するのは、ルネッサンス期文学からであるともいわれる。わが国の「古今集」や「新古今集」などの古典にも酔漢は現われて来ない。もちろん、それらの作者が女性であるということにもよるだろうが、古代では、うっ憤晴しに飲む、ひとり酒というものはなかったからでもあろう。
昭和50年、東京大学では、公開講座の題に「酒」をとりあげた。酒に関し、その造り方から、酒と健康、酒と文学、酒と社会など多彩な項目がとりあげられ、縦横に論究されたが、中で
も「西洋文学と陥酎」(平川祐弘)や「酒と社会」(中根千枝)などから、教えられる所が多かった。
17世紀のフランスのラシーヌに代表される古典劇には、酔っぱらいはまったく登場しないという。イギリスのシェイクスピア劇では、しかし、ハムレットの第5幕第一場に、墓掘人夫かオフェリアの墓を掘りながら酔いどれて、仲間にさらに酒屋へ酒を買いに走らせる一節が出てくる。平川先生はそこで、ラシースはアポロ的、シェイクスピアはディオュュソス的という対照が成立すると述べられる。アポロ的とか、ディオュュソス的という区別は、ニーチェに発する。ニーチェが「悲劇の誕生」の中で、アポロ的夢幻とディオニュソス的陶酔を対比させた。静的な造形的な芸術をアポロ的芸術とし、動的な音楽的な芸術をディオェュソス的と称し、一方を夢の世界、他方を陶酔の世界というふうに考えたとのことである。
酒による陶酔は、まさにディオュュソス的である。むろん、前述したようにディオェュソスは、酒の神でもあるからに外ならないが、ディオュュソス的文学は、フランスの文芸復興期の代表作家、ラプレーに発する。ディオュュソス的光景は以後ゲーテの「ファウスト」に至って、アウエルパッハの宿の酒宴に生き生きと描写される。この間、酒は創造の基であり、ロマンの馥郁たる香りの守り神であった。しかし、十9世紀も後半になるとボードレールに代表されるよう
に、酒は懐疑的、厭世的な人生の目的を喪失した入間の一時の逃避のために用いられるようになる。酒自身の堕落がここに始まるのである。
禁酒法のてん末
西部劇の映画の場面にはしばしば酒場が出てくる。そこでは酔どれ同士のけんかはつきものマある。やがて、拳銃の撃ち合いになってどちらかか倒れる。そんな歴史がアメリカに禁酒法を制定させる素地をつくったのであろうか。
1920年から制定された禁酒法はしかしながら、ギャングの帝王アル・カポネを育てるのに役立つ以外に何の効果をも生まずに潰え去った。そして、アメリカ社会に残ったものは、飲酒に対する罪の意識であった。アメリカ社会では、アルコール(中毒)症と見なされる人の数は900万を越えるという。陽気に飲む酒よりは、めまぐるしい社会の変転に順応できなくなった社会からの落伍者のひとりさびしく飲む酒が、罪の意識に責めさいなまれながら、より深刻味を増す
ことが、アメリカの。アル中″の自殺者の多い理由と解する向きもある。わが国の社会では、祭りの酒は罪の意識を育てることにはならなかったので、アメリカのような孤独な″アル中心の数はけっして多くはない。しかし晩酌という言葉にもあるように、家庭の中で飲まれる酒が、それを許す家族の寛大さの故に、すなわち、アメリカ社会とは逆の罪の意識の無さの故に、しだいにアルコール症者を育てる素地を造ってきたかも知れない。この場合も社会のストレスに対抗しきれなくなった人々がアルコール症になっていることには変わりはない。
K・エイミスはいみじくもいう。「酒飲みのうちで不幸な状態に落ちこむ連中がいるか、それは個人的なことがらで、ひろく見て社会全休が酒から受ける利益のほうが重要である。最近あるアメリカの調査団が下した結論によると、アルコールが人間をリラックスさせたり、突っかい棒になったりしてくれな
かったら、西欧社会は第一次世界大戦のあたりで崩壊してしまって回復の見込みがなくなっていただろうということだ。酒がこの人間の社会からなくなることなどありはしないし、もし酒がなくなるようなことがあれば、われわれ人間もまたいなくなってしまう、というのがその意見の寓意とおもわれる」。だから、酒は人間社会に無くてはならない存在である以上は、その酒によって、人間がみずからの存在を維持するためにこそ飲むべきであって、みずからの存在を否定するために飲むなどは、ナンセンスといわねばならない。
酒は永劫のむかしから存在している
そのことを僕は疑わない
酒は天使たちが創造した
そんな話もつくりごとではあるまい
酒を飲んでいるひとはそれが誰であれ
神さまのお目をいちだんとさわやかに
見つめている人だ。(ゲーテ「西東詩集」菊池栄一訳)
この詩のように、神の御心にかなうような、そんな飲み方をすれば、酒はまさに。百薬の長・となろう。
さて、そんな酒飲みになるためには、酒について若干の医学的知識が必要となる。酒は頭で飲むものではなく、心で飲むものだから医学的知識など不要だといわれるかも知れないが、。百薬の是々も過度に用いたり、その用量を誤まれば、奇薬に変じるのである。酒を毒薬としないために、その得失を知ることもむだではあるまい。はなはだ無粋な話ではあるが、このブログの役目として、これからそれについて語らねばならない。

酒とアルコール

酒とアルコールは同類ではあるか、酒=アルコールではない。第2次大戦中に酒類か入手困難になった際に、ひそかに研究室のアルコールを欧んだという先輩の話によれば、とてもそのままでは飲めたものではないということであった。砂糖を入れたり、コハタ酸やグルタミン酸を少量加えたりして、独特のアルコール臭を消す涙ぐましい努力をして、やっと口に入れることかできるようになる程度で、とても2合も3合も飲める上物はできなかったそうである。
酒の味しかし、酒の主成分はアルコールであることは確かである。それに100種類以上の微量の混
り物が入っていて、それがあの風味をつけているのである。

醸造酒と蒸留酒
ビール、ブドウ酒、日本酒などは「醸造酒」といわれ、発酵させて造った酒である。ビールは大麦の麦芽から、日本酒は米から、老酒は籾米からそれぞれつ
くられる。日本酒のアルコール濃度は15〜16%という規格に基づいてほぼ一定しているが、醸造蔵から出したてのしぼり酒では22%という高濃度のものがある。
ウイスキー、ウオ。カ等は「蒸留酒」である。ブランデー、ラム、高梁酒、焼酎もそれである。ウイスキーは大麦から
(アメリカではトウモロコシからつくる。バーボン・ウイスキーがそれである)、ブランデーはふどう酒から、ウオッカは大
麦とライ麦から、ラムは甘薦汁から、高梁酒はコウリャンから、焼酎は領頚や芋類、酒粕などから、いずれも蒸留によって造る。したがってアルコール濃度が高く、いわゆる「エキス分」といわれる固型物はoまたはごく微量である。糖類の少ないことで、糖尿病者には好まれるゆえんである。
醸造酒や蒸留酒を.ベースにして、これに香料や砂糖を混ぜて口当りをよくしたり、薬を入れたり、邑をつけたりして造るのを「混成酒」という。ブドウ酒をベースにしたものでキナ鉄ブドウ酒、ベルモ″トなどがあり、アルコールに砂糖、エッセンス、色素を加えてつくるもの(外国では香料と酒類をまぜて蒸
留したものもある)をリキュールという。これには、キュラソー、ベネデクティン、ペパーミント、ゴールドワッサーなどが
ある。味解なども混合酒であるが、わが国では税法上の分類では別になっている。
税金上の分類は主としてアルコール含有量で区別されているようであるか、品質上の区別などは必ずしも法的なものではない。清酒における特級?ニ級の区別は、アルコール濃度と製造業者の自主的な品質段階付けによるとのことであるが、地方のいわゆる。地酒″の中には、特級に近いものでも営業政策の上から2級にしているものもあるらしい。
さて、だいぶ話が横道にそれたが、本題にもどそう。
酒は結局はアルコールを主成分とする食品ということになるが、アルコールは1グラムが7カロリーにあたる高カロリー食である。だから、酒だけ飲んでいても他の栄養のバランスを抜きにすれば、カロリーの補充はできるのである。そこがまた酒飲みを栄養障害に陥らせるもとにもなるし、酒を飲んでなおかつ多食すれば過栄養になり、いずれにせよ栄狸障害を起こすことになる。

「酔い」について科学する

酒を薬として飲む人はいない。やはり、ストレス解消のためとか、人間関係をよくするためとか、疲れをとる、熟睡するためとか、いろいろの理由をつけるだろうが、結局は、嗜好品として飲用するわけである。。酔い″の快さを楽しむのが飲酒の第一の目的であろう。
酔いはどうして生じるのか、分かり切ったことだといわれるかも知れないが、その辺から学んでいこう。アルコールが。酔いtのもとになることは誰でも知っている。しかし、酔いとはアルコールによる興奮作用なのか、麻酔作用なのか分かっているようで分からない。薬理学者の間でも昔はそれが論争の経になった。だが、結論はもちろん麻酔剤ということになった。アルコールに眼らず麻酔剤は少量では軽い興奮を起こし、大量に用いると麻酔作用が出てくる。昔の薬理学の教科書を開くと、それはアルコールがまず大脳皮質をおかし、麻痙させるので大脳皮質から抑制を受けている下位の中枢が自動的に働き、一時興奮をおこすように見えるのだと説明されている。むかしの教科書はさらに、大脳皮質についで小脳が、次に脊髄が侵され、最後に延髄かやられると呼吸麻嘩がきて死にいたるのであると。なるほど、まず、興奮がおこり、次に運動障害が出現し、意識が混濁してきてやがて侃匹にいたるという酔いの経過を見るとそれもうなずける。だが、近年になって、脳の機能の生理学的説明が複雑になり、こんな単純な機構ではなく、もっと複雑な機序によって麻酔か進行すると考えられるにいたった。
最初に酔うのは網様体
意識の研究では世界的な学者であるマグン博士は、たくさんの勣物の胴に針をさしたり、切断実験の結果、「脊髄を経て脳に送り込まれてくる感覚刺激は、脳幹部の網様休と弥する中畦所に刺激を与える。この脳幹網様休は、大脳皮質や皮質下限造を管理する中火配電盤的な場所で、特に意識の水準を統括している。だから、網様休から上行して視床を経て大脳皮質に投射されている上行性の神経繊維はこれを網様休賦活系と呼ぶのがよろしい」という説を発表した。大脳皮質を剌激して働かせている手配師は実は脳幹という下位脳にある絹様休であるということになる。さて、アルコールは、この網様休の活動を低下させる。この網様休活動の低下により、その影響を受けて大脳皮質の活動が抑制される。
ところで網様休賦活糸は、明敏な意識や高等精神機能の生起に関係する新皮質(大脳皮質)に対して強力な賦活作用をもっているので、アルコールが網様休賦活系を抑制すると大脳皮質の高等精神賎能がまず軽く麻偉する。そうするとこの新皮質に支配されて抑えられていた大脳辺縁系(古皮質や旧皮質といわれる本能行動・情動行動に関与する部分)の活動が一時的に活発化する。このことにより興奮か起こることになる。
平社員は係長の、係長は課長の、課長は部長の、そして部長は重役の悪口を一杯機嫌でいう時間かまさにこのときである。
忘れた歌を思い出す
アルコールの麻酔作用が進むとやがては、古皮質、旧皮質にまでその麻酔作用が及ぶ。そこで情動行動の分離が起こってきて、泣き上戸やおこり上戸などが現われる結果になる。
さらに麻酔の度が進行すれば、身体機能の障害が出現する。この場合、神経系のどの部位が・最も強くおかされるのか、本当のところまだ十分解明されていないが、新皮質の運動領野の抑制が第一にあげられ、次に小脳の機能障害がおこり、また、脳幹の筋緊張を司る細胞群が侵されるという順になる。いわゆる「千鳥足」になったり、協調運動の障害か現われるにいたる。新皮質か抑制される段階では、思考力の低下や集中力の低下か起こってくるが、一時は記憶や連想がよくなり日頃忘れているような歌がすらすらと出てくるなど、時には頭のさえを示すかに見えるときもある。これはしかし記憶力が増強されたというのではなくて、不安や緊張感が除去された結果の精神的開放感がそうさせるのであって、本当に記憶力かよくなったわけではない。日頃、口にしないエッチな話がすらすらと出たり、酒の力を借りて彼女を口説けるのも、このためである。
アルコールはしかし麻酔剤としては効率の悪い薬であって、真の麻酔効果か出現する
までには、かなりの大量を用いなければならない。理想的な麻酔剤はこの興奮期が短くて、いく麻酔間に入り、しかも麻酔作用が長くつづき、かつ危険の少ないものということになるか、わがアルコールは残念ながらこの条件には当てはまらず、麻酔薬としては失格である。
結局、印抑制が一時的に取り除かれる興奮期が長いこと、②かなり大量に飲まないと麻酔にいたらないこと、がバ。カス的効果を生む利点であるので、これが酒の効用となるわけである。
酔いの決定因子—血中アルコール濃度
さて、しかし、酔いの程度は人によって異なるし、その酔い方も千差万別である。一体、その酔い方の違いはどうして生じるのだろうか。奈良漬で酔う人もあれば、一升酒で平然としている人もあるのはなぜか、そのことを説明するのはなかなか難しい。十人十色といわれるように人にはそれぞれ個性の違いもある。そうした性格や体質の個人差が酔いの形に影響するし、また、酒を飲む場の雰囲気でも酔いの形は異なる。陽気にはしゃいで飲む酒と悲しみをこらえて飲む酒では、酔い方に差を生じるのも当然といえる。
しかし、削かに個人差や状況による差はあるか、酔いの程度は、やはり生物である人間の麻酔薬に対する反応の原則から大幅にずれることはないものである。酔いの程度を正しく測るためには、脳内のアルコール濃度を測定するのがよいのであるが、とてもそれは実行不可能である。そこで脳内濃度と比較的平行関係にあると考えられている血液中のアルコール濃度を測定することが行われている。血中アルコール濃度は、飲酒すれば上昇するが、次第に時間とともに低下する。前にも述べたように空腹であれば、上昇率は高く、胃に内容物かあれば上昇率は低くなる。その具体的な例は後に示そう。
血中からのアルコールの消失
酔いに関係するもう一つの要件は、血中アルコールの消失速度である。アルコールの代謝についての化学的説明はさておき、血中アルコールの消失速度は、すなわち、アルコールの酸化速度と関係する。アルコールの処理能力の平均匝からすると、晩酌する大が就寝前に3合くらい飲んだ程度にまで
血中濃度を減らしておかなければ、翌朝の血中濃度はoにはならない。だから寝る前に5合も一升も飲んだ人は、翌朝もなお高い血中濃度を示すことになる。
2日酔い(宿酔)の原因の一つは、こうした大量の飲酒が関係することは後刻述べるとしよう。

体の中のアルコールの行方

体の中に入ったアルコールは、90%以上が酸化されて炭酸ガスと水になる。残りの約5・6%たらずが、一部は尿中へ、一部は呼気中にそのままの形で排泄される。アルコールの酸化を受持つ顕官は肝臓である。肝臓は栄養物の分解に関係する一大処理工場であるが、薬物、毒物の分解にも関係する。アルコールは肝臓以外に、ほんのわずか筋肉内で分解される。
非行少年・アセトアルデヒド
さて、アルコールの酸化過程で、アセトアルデヒドか生じることを述べてきた。アセトアルデヒドはアルコール代謝の中間代謝・腿物のうちでは最も大きい生体効果をもつ物質なのである。効果というとプラスの効果が想起されるが、これは生体にはマイナスの効果を及ぽすのである。親のアルコールよりも薬理学的には強い生体反応性を示すいわば困った非行少年である。たとえば、動物実験で、アセトアルデヒドをやや大量に注射すると、血圧が一時的に上がってのち低下し、心臓の働きが抑えられ、呼吸困難さえ起こってくる。少量を与えると血圧上昇が起こり、呼吸酸素量が増し、糖の分解が盛んになり一時的な過血糖が起こったりもする。これは交感神経作用といわれるものである。
アルコールを飲むと、時に吐き気、嘔吐が起こる人があるが、これなどはアルコールの直接作用によるものではなくて、このアセトアルデヒドによるのである。後にもくわしく述べるが、アセトアルデヒドは交感神経末端から、神経伝達物質であるカテコールアミン(ノルアドレナリン・アドレナリン・ドーバミンなどのカテコール休をもつアミンのこと)を遊離させる作用がある。これか交感神経作田を生ぜしめるものと考えられてもいる。
アルデヒドは図5にも示されているように飲酒中にアルコールの血中濃度の上昇とは4〜5時間遅れて最高値に達し、以後はアルコールとほぼ平行して血中から消えていく。たしかに「悪酔い」の原因の一つにアルデヒドが関係するらしいことは、アルデヒドの直接作用による症状と悪酔いの症状が同釦なのでうなずけるところである。
また、酒の嫌いになる薬のアンタビュース(ジズルフィラム)は、アセトアルデヒドを分解するアルデヒド脱水素酵素の働きを鈍らせる。そのためアルコールの分解が、アセトアルデヒドの段階でとまり、血中アセトアルデヒドの濃度を高める結限になる。そうすると、吐き気や.嘔吐や呼吸困賠、心悸完進などの不快な悪酔い症状が出てくるのでこのアンタビュースは結果的に酒を飲む気を失わせるねらいをもった薬として使えるということになった。結局悪酔い予防は急激に血中アセトアルデヒドか上昇するような「がぶ飲み」をしなければよいという常識的な結果に落示くのである。

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